Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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夏休みに読みたい本

 

 

夏休み、教員は比較的動きやすい時期です。

夏期講習や説明会等、通常時よりもイベントが多いため、大変っちゃ大変なわけですが、研修や読書など自己研鑽にも励みやすい時期です。

 

暇は絶対に確保しなければならないものですが、学期中ですと、どうしても追われるスケジューリングになってしまいます。

夏休みは暇を確保し、自己投資に費やせる貴重な時期です。だからこそ、ためていた積読を消化したいのですが…

 

教科の力を強化しよう

 

政治学畑で学習を進めてきたため、経済学にあまり自信がありません。

公務員試験予備校に通っていたこともありますが、その時の残りカスと新書程度の知識しか持ち合わせていないので、ここで学部レベルの勉強をしっかりやっていこうと思っています。

書店で見比べたらマンキューが一番わかりやすかったですね。ちなみに南英世先生もマンキュー経済学はおすすめしていました。

 

伊藤元重先生の筆致はとても丁寧なのでわかりやすく、1年前に買っては、授業前にパラパラと「めくっていました」(費用対効果よ)。

  

マンキュー経済学 I ミクロ編(第3版)

マンキュー経済学 I ミクロ編(第3版)

 
マンキュー経済学 II マクロ編(第3版)

マンキュー経済学 II マクロ編(第3版)

 
ゼミナール国際経済入門

ゼミナール国際経済入門

 

 

 

 

 授業のスタイルを構築したい

 

教員2年目です。正直、あまり授業や生徒指導の理想像を持ち合わせていません。

けれども、指導をしていてブレる自分を感じることもあり、このあたりで一貫した理想像・価値観を作り上げたいなあと思っています。

特に資質・能力や授業スタイルに関しての理解を深めたいなあと思っています。

またどのような指導をするか、授業をするか、ということに関しては経験と科学の両輪から構築していきたいので、堀先生や溝上先生の本を消化していきたいですね。

 

一斉授業10の原理・100の原則―授業力向上のための110のメソッド

一斉授業10の原理・100の原則―授業力向上のための110のメソッド

 
教室ファシリテーション 10のアイテム・100のステップ―授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド

教室ファシリテーション 10のアイテム・100のステップ―授業への参加意欲が劇的に高まる110のメソッド

 
学級経営10の原理・100の原則―困難な毎日を乗り切る110のメソッド

学級経営10の原理・100の原則―困難な毎日を乗り切る110のメソッド

 
生徒指導10の原理・100の原則―気になる子にも指導が通る110のメソッド

生徒指導10の原理・100の原則―気になる子にも指導が通る110のメソッド

 

 

溝上先生はウェブサイトもかなり参考になります。

アクティブラーニングを始めよう、と思ったらまずは溝上先生の本を読めばいいのではないかと思います。

自分の学習方法も「まずは科学的知見を」というスタイルなので、心理学からのアプローチは良かったです。

アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)

アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体性 (学びと成長の講話シリーズ)

 

 

まずは真似からです。

学ぶはまねぶ。先達の知恵を借りてみたいと思います。

 

昨今の潮流を

次期学習指導要領はコンピテンシーの影響を受けています。

当然、獲得すべき能力として教員は押さえておくべきです。

 

 

また、それらをどのように教授するか、という点においてもどういったアプローチがあるのか、検討しなければならないですね。

 

対話型授業の理論と実践―深い思考を生起させる12の要件

対話型授業の理論と実践―深い思考を生起させる12の要件

 
教育ファシリテーターになろう!  ―グローバルな学びをめざす参加型授業

教育ファシリテーターになろう! ―グローバルな学びをめざす参加型授業

 

 

2冊目は拓殖大学でのワークショップの授業をまとめたものです。

社会人も講座を解放しているので、去年履修しようか本気で迷いました。

 

人として必要なことを

心理学に興味があります。自分の心にも他者の心にも。

特にどういう生き方をしたいか、というところに関心が強いです。

大学・大学院の時に何度も読んだこちらの本をもう一度手に取りたいと思います。

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

完訳 7つの習慣 人格主義の回復

 

 

もう1冊。最近田中角栄に興味を持ち出しました。これも昨日キンドルで買ってしまったので、読んでみたいと思います。

人を動かし、動かされる職業ですから、人たらしに関心が出てきたんですかね。

 

 

最後に

以上です。

壮大な積読です。

というか読み終えてないのに買っちゃってますね、昨日。

 

夏休み、今年度すべての教材準備もやりたいところなので、この壮大な計画を如何にやり切るか、時間との戦いになるかと思いますが、できるところからコツコツやっていきたいと思います。

 

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夏休みは私学の採用に向けた準備を~私学採用の時期について~

 

 

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夏です。

 

教員も夏休みに入りました。

 

人によっては通常時より忙しい先生もいらっしゃるかもしれません。

ただ授業や成績処理にも一区切りがついたので、気持ちの面では休みに入っているかもしれませんね。

 

そして、この時期に一旦ひと段落するのはもう一つ。

私学の教員採用試験です。

私立中高の採用試験は年間を通じて何回か波があります。

 

乗るしかないよ、ビッグウェーブ

まず1学期。この時期は夏休みまでにかけて、公立の教員採用試験に先駆けて募集が多く出されます。

公立に先んじて選考を行うことで優秀な層を取る狙いが各私学にあるようです。

当然、募集は専任・常勤が中心になります。

 

これが終わると、次の波は夏明けです。

大体8月の終わりから10月中旬くらいまでにかけて募集が始まります。

ここでも専任・常勤が中心ですが、やや常勤が多めな印象です(年によって変わりますが)。

公立の結果が出る前に学生を確保したり、来年の人材配置の策定の時期がこの辺りにあるために、意外とこの時期の募集も多いです。

 

サードウェーブが3学期です。

ここは学校側の事情で非常勤講師の募集を大量にかけます。

入学者数が定員数をオーバーしたため新たに授業担当者が必要になったり、本当に色々な事情から募集が出ます。

 

今の時期にすること

 

今の時期は第1の波が終わって、第2の波の採用試験に向けて各学校が準備をしている段階に当たります。

ですので、私学教員志望者はこの時期に面接対策や小論文・教科試験の対策を入念に行うことが肝かと思います。

特に私学はザ・多様性というくらいにカラーがバラバラなので、色んな媒体で下調べをするのがいいかと。

やさしい社会を目指そう

 

 

記憶に残っている言葉なので書き留めておこうと思う。

 

「けどな…舷一郎」

 「ワシらに余裕があったさかい、分けてやれたんじゃ…

人間、余裕がないと他人に優しゅうでけへんもんや。

もし…この世にあの水と食べ物しかなかったら…

ワシは命がけで守ったろう…

人間ちゅうもんは恐ろしく汚いもんやねん。

そやからな、人間、一番大切なものは、その余裕やねん。わかるか?」

 

これは、かわぐちかいじ太陽の黙示録』に出てくる1シーンである。

坂巻という男性が主人公の舷一朗に投げかける言葉だ。

富士山の噴火と関東圏への大地震が発生した直後、ライフラインが機能していない中で食糧を奪われそうになった坂巻は暴漢たちと乱闘になる。しかし、舷一朗はむしろ食糧を分け与えるよう坂巻に促す。助け合いに気づかされた坂巻は発した言葉である。

 

2つの人間観

古来、人間に対する見方は大きく分けて2つあった。

性善説性悪説である。

前者は人間の理性・道徳に期待する一方で、後者は人間は本能で動くものだという立場をとる。

 

人間も動物である。しかし、他の動物と異なるのは高度な社会を構築する点にある。

生存本能に基づいて判断や行動をする。当然、生存本能に基づいた生理的欲求に則った行動をすることもあるが、自己実現などの社会的欲求もプログラミングされている。

 

しかし、大前提は生物としての欲求の充足である。

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マズローの欲求5段階説をこの上なく丁寧に解説する。あなたの欲求はどのレベル? | 自分コンパス

 

サバイブするのは「人間」社会だろうか

「競争」という価値観は昔からある。

しかし、「競争」が各人にとって普遍的であるためには、その条件整備が絶対的に必要である。

所得格差や生まれ持ったハンディキャップなどが全く考慮されない形式的平等では、健全な競争はなされない。

 

現在の社会は格差が拡大しつつある。

格差がどの程度あるのかを表すジニ係数は年々拡大している(再分配前の数値)。

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日本の格差は広がっている? 他の国と比べると?|イーズ 未来共創フォーラム

 

また、所得の中央値は10年前に比べ100万円以上下がっている。

世帯所得の中央値や世帯人員数の移り変わりをグラフ化してみる(最新) - ガベージニュース

 

確かに社会保障給付は毎年増加しているが、これがすべての世帯に分配されていることは意味しない。分配の恩恵に授かれない家庭もある。特に単身世帯の若者に対しては直接的な支援はほとんどない、というか負担に比して受益が少ない。

 

給料が全体的に下がり、かつ支援もないとすれば、自助は困難である。自らを助けようにも、基礎的な欲求の充足すら困難な場合もある。

こうした社会的な要因によって人々の基礎的な生活条件が整備されていないとしても、もし人々の中に「自己責任論」が内在化されていれば、自助できていないのは怠惰や無能ゆえになる。犯人は本人の努力不足「ということになる」。

 

だが、不満は募るものである。当たり前だ、余裕がないのだから。

余裕がなければ、人には優しくできない。ましてや自己責任論を強く持っていれば、それは他者を攻撃する拠り所ともなる。

 

やさしい社会を

 

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けれども、そういう社会ってつらくないだろうか。

いつだってギリギリな生活不安がすぐそこにある。

自分の不遇や能力を呪う、けれどもそれは社会的な要因が大きいものだとしたら…

「がんばればなんとかなる」という神話にすがって、「頑張ってもどうにもならない」現実にもがくことになる。

頑張ってもどうにもならなければ、犯人探しがはじまる。社会のルールを決めている権力者、特権階級への攻撃が起こる。そうして人類は革命を経験してきた。

近年の集団無差別事件だって、社会を呪ってきた出自があるかもしれない(事件の加害者を擁護するつもりは毛頭ないことを申し上げておきます)。

 

戦前の2・26事件などの背景を知ると強く強く思うのだが、そろそろ新自由主義的な政策はブレーキをかけて、分配政策にも目を向けたらいいのではないだろうか。

戦前の恐慌はすさまじいレベルであるが、今の日本は全く違う。だが、仮にも世界第3位のGDPがあり、サミットを構成する先進国日本である。おにぎりが食えなくて餓死したり、自殺者が3万人もいるのは悲しいではないか。

 

誰かにものすごく余裕がある社会よりも、ある程度みんなが余裕を持たないと、やさしい社会は訪れないのではないか。

冒頭の坂巻の発言は非常に示唆に富んでいる。

成長戦略も大切ではあるが、そろそろ分配政策について話すときが来たんじゃないだろうか。

同じ位置から競争できるように、スタートラインをしっかりと整備してほしい。それが政治に求める役目だ。

 

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先生は非常識?

 

先生は非常識といわれる。

 

ただこれは結構当たっている節がある。

これは自分自身も含めてだが、簡単なビジネスマナーを知らないケースがかなりある。

 

たとえば、名刺の正しい渡し方。これ、知らない先生が結構いる。

 

他には電話対応の仕方を知らなかったりする。

偉そうに言っているが、自分だって社会人になってから自分で調べた口である。

 

特に私学の教員であれば、外部との関わりが非常に大きいので、マナーが身についているかどうかは極めて重要な問題である。

 

もちろん、これらは企業社会における「一般常識」と呼ばれるものなので、どこを「社会」として切り取るかで異なってくると思う。

 

しかし、これからの社会において教員も外部の機関とかかわる機会が増えてくる。

新学習指導要領にも「社会に開かれた教育課程」と明記してある。必然、社会的なマナーに関しては必須のものとなってくるかと思う。

 

問題は学ぶ場所が「ない」ということである。

 

自分はYoutubeで名刺の渡し方を調べたり、メールの書き方等をググってはいるが、教員研修でもこういう基礎的なビジネスマナーを組み込んでほしいなあと思う。

学びの場の欠如は社会生活を送る上でも由々しき問題かと思うので、教職課程でも初任者研修でもこういう機会があるといいなあと思う。

 

常識がないと言われれば、どこにおける常識かはきちんと見極めたいところではあるが、時間意識やメールのやり取り、挨拶等に関してはきっちりとしていたいなあと気を付けている。

 

ただ我流なのでどこまで正しいかはわからないが… 

 

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不満の大元は「声を聴いてもらえないこと」

 

 

 

為政者に求めること

 

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今は大きな社会的変化の渦中にある。明治維新から150年が過ぎ、その当時のシステムが変わらざるを得なくなっている。学校というシステムもその一つだ。

 

ここで政策決定者に求めたいことがある。

それは、多様な視点を吸い上げることである。

具体的には政府の政策委員には多様な背景を持つ人を呼んでほしい、ということである。

たとえば、中央教育審議会のメンバーを参考にしたい。

www.mext.go.jp

 

リストを見ると、専門家が呼ばれていることがわかる。

ただ、ここで街の人たちの声はどうやって吸い上げられるのだろうか。

主婦や学生、管理職以外の先生、組織の末端の構成員、若者などなど…

大学教授や学術会議のトップなどはどうしたって同じようなバックグラウンドを有する。すべてを調べているわけではないが、多様な視点はあれども、その限界はあるだろう。

こうして議論していても当事者は蚊帳の外なのだから。

 

別に権力が腐敗するというわけではないけれども、強者ばかりの発想では窮屈にはならないだろうか。

 

現実には難しいけれども

何故こんなことを言ったかと言えば、現在の国会と選挙制度では「多様な声」を吸い上げることは不可能だからである。

というのは、衆議院でも参議院でも選挙区選挙が行われており、特に衆議院小選挙区制の下では絶対に多様な声を反映することはできないから。小選挙区制では死票、つまり無駄になってしまう票が多くなる。時には当選者の獲得票数を死票が超える場合さえある※。

 

同時に国会は政策立案ではなく、官僚の政策の後追いの場である。

近年においては議員提出法案と成立率も上昇しているが、それでもやはり内閣提出法案の提出数と成立率は圧倒的である。

そして、内閣提出法案は官僚が作成し、与党が合意したものである。提出される段階で、修正の余地はほとんどなく、与党議員も人事権を党総裁に握られているので、ほとんど反対することはない。

したがって、現状の選挙制度においては与党支持者以外の声を反映することは極めて難しい。

 

だからと言って、前述のように政策会合に当事者を交えるのは極めて非合理的である。

というのは物理的制約に加えて、インセンティブのない会合に素人が参加する意欲は通常持たないからである。

 

これからの社会でできること

 

提案として、ビッグデータの活用というのを一つあげたい。

 

政治家の機能は政策決定と民意の集約である。

だが、前者はともかく後者は非常に難しい。

そもそも主権者の意思を代理するという絶対に実現しないフィクションが市民革命以降運用されてきた。

フィクションが長い間運用されてきたことで、伝統となり、我々にとって「当たり前」となっているだけであって、技術的に可能であるならば、政治家に代替できないだろうか。

これこそ究極の民意の反映ではないだろうか。

インターネットさえ使えれば、今まで表舞台に出てこなかった要求も出てくるかもしれない。

 

政治家をなくさずとも、立法過程でこのような技術を活用できはしないだろうか。

 

不満の大本は

 

結局は自分の声を聴いてもらえない、反映されない、そういうところに主権者としての無力感を感じるのである。

国民主権だってフィクションであるが、そもそもそのフィクションを根拠にして、政治家は政治をやっているわけである。なんだかなあ、という腑に落ちない思いがずっとある。

 

という7月終わりの妄想をお送りしました。

 

※すべて比例代表制にすれば解決するという簡単な問題でもありません。

ヨーロッパの小国などを参考にすると、かなり長い間努力して連立政権がうまくいった経緯があったりしますから。

 

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今さら上野千鶴子さんの「東大祝辞」を読んで考えたこと

 

 

今年話題になった上野千鶴子さんの東大入学スピーチについて、今さらになってしっかり読んでみた。

 

www.u-tokyo.ac.jp

(こちらのサイトに全文が載っています。)

 

こうしてしっかり読んでみて、色々と考えたことがあるので、それをつらつらと書いていこうと思う(ちょっと重いですよ~)。

 

 

フェミニズムに対する誤解

まずはスピーチの抜粋をご覧いただきたい。

 

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

 

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昔むかしのこと。

大学生の頃の自分はフェミニズムを嫌悪していた。

理由はいくつかあるが、1つは活動家が教条的に見えること、もう1つは伝統をただただ破壊する思想だと思っていたからだ。

 

しかし、考えが変わった。社会変革に援用できる思想だと思うようになった。

たとえば伝統に関して。

いざ社会に出て「伝統」なるものに触れると「意味が分からない」と思うことがある。

極めて非合理的じゃないか。こんなものして何になるんだ、と思うことがいくつもあった。

それから引用にあるように「弱者」の存在を知ったことが大きい。どちらかと言えば、自分自身もそちら側の存在だった。あまり豊かではない家庭で育ち、幼少期から他者と比較して違和感を感じることが多かった記憶がある。

子どもは時に大人の想像を超えた残酷さを見せる。純粋な疑問から発した言葉が私の心を大きくえぐったこともあった。そのたびに弱みを見せまいとヘラヘラと笑っていた。

思えば、あのころの経験が、自分と向き合うための心理学や社会の不合理を見極める社会科学へといざなったのだろう。

 

さて、こうした経験に加えて学問は確実なセルフイメージをもたらした。

大学院で多様な書籍に触れたことで学術的な知見を得たこと、社会に出て様々な事情のある子供たちや家庭に触れたことで、あやふやな自分自身への育ちに対する認識は豊かではなかったという確信に変わる。

そして、今自分の暮らしがあまり豊かではない(これも他者と比較している)ことの影響も大きい。

 

弱者が弱者のまま尊重される。肯定される。素敵な社会ではないか。そういう風に思った。

もちろん、大学院まで進ませてもらって何が貧困だ、という方もいらっしゃるだろうが、これはあくまでも私自身の主観的な問題である。加えておくと、進学費用はすべて奨学金で賄っている。

 

自分の中にあるジレンマに気づく

ただ自分は弱者として過ごしてきた期間が長かった。そういう認識がある。

弱者としてあってはならないと言い聞かせ、いつも人の顔色や集団内での立ち位置を気にしてきた。

本心から、自分の好きなように過ごしてこなかったなあと今この記事を書いていて非常に後悔している。

そういった成長過程の中で「強者になりたい」という欲求がどこかにあることにも気づいた。

だが、強者になるには果てしない競争を勝ち抜かなければならない。

けれども、その果てに満足はあるのだろうか?

 

どんなに頑張っても報われないこともある

頑張っても報われないこと。

この社会のテーマにうすうす感づいていたのは高校生頃である。

部活動でどんなに頑張ろうと、生まれながらの身体能力はもちろん、親の経済力・趣向によってスポーツの開始年齢が異なる。

 

特に運動に関する神経の発達は早期のスポーツ開始によってその程度が異なってくる。つまり、親次第である。

私の親は自由放任主義であった。そのことについてはとやかく言うつもりはないし、大学進学や就職においても私の意思を尊重してくれたことには感謝している。

けれども、幼少期において子どもの意思などない。「何かやりたい」という欲求を持たせ、それを尊重させるには、様々な選択肢の存在を「知らせ」、その欲求を「伝える」ことのできる環境の整備が必要である。安全・安心に発言のできる環境である。

 

そういうものが圧倒的に欠如していたために、スポーツの開始年齢も遅かった。

必然、色々と苦労した。そういう苦労も医学書に手を伸ばすほど悩ませるものだったが、前述の神経系の発達を知って、運動でこれ以上の成果は無理だと悟り、勉強を頑張る方面にシフトした。

 

けれども、勉強だって大学に入ってスーパーエリートの存在を知って、どうにもならないことがあると知った。

化け物かこいつは、と思う人が何人もいた。地頭の差とでもいうのだろうか。絶対に勝てないという人は大学で初めて会った。

 

そういう人のバックグラウンドを知ると卒倒しそうになる。みんなが知ってる企業の役員だったり、地方の名士などなど。ヒエー…という感じである。

 

誰が悪いというわけではない。

社会という大きな枠組みの中に、階段があるとすれば、自分が生まれた階段はものすごく低いところから登るしかなかっただけなのであって、たまたま他の人は低く生まれたり、高く生まれたりしただけなのだ。

 

そこから上っていくには今自分が何段目にいるのか認識を正しくする必要がある。

だからこそ、社会を絶対視せずに相対視する。

もし非合理な制度だったり、それによって苦しめられている人がいるならば、変革していくべきである。

そういう自分の姿勢はこうした経験の中で育まれたのだろうと思う。

 

記憶に残っている言葉

忘れられない言葉がある。

 

今の社会は40代以上の男性はとても幸せな社会である、と誰か大学教授が言っていた。

世界の幸福度指数で日本の幸福度は58位だと。でも、この数字は正確ではない。なぜなら、女性や若者は非常に幸せを感じられていないが、現在の社会システムが40代以上の男性に適応する形で設計されているからだ、と(もちろん、これは主観的調査なので40代以上の男性でも様々な捉え方がいることを承知の上でこのような表記をしていますことはご承知ください)。

 

自分にとって何となくインパクトのある言葉だった。

大体において幸せ・不幸せという問題は経済的な問題に由来するのだが、現在社会において経済的な豊かさは様々な問題を解決してくれる。

 

これは自分自身の所得だけでなく、親の資産も関係している。

 

そして、経済的な資産の有無は文化的な資産にも関係してくる。

 

学歴社会という明治時代から続く「伝統」があって、その伝統が上位の人間によって再生産されている。今ここでエビデンスがあるわけでないが、世襲政治家のプロフィールやら何やらを見ていると、そういう思いはより強まってくる。

 

教育で何ができるだろうか

家庭は様々な機能を担っている。

社会化機能や生活維持機能、子供の居場所としての機能など。

しかし、家庭に問題があれば、コミュニケーションを訓練したり、感情を育んだり、自己肯定感を高める場は喪失してしまうかもしれない。

 

問題のある家庭で育った子どもたちは、大人になっても何らかの問題を抱えている。

環境に適応できなかったり、精神的な疾患を抱えたり…

 

だからこそ、今の社会では学校の役割が大きく見直されているのだろうが、教師だけに求める問題ではないと思う。

公立の学校で小学校~高校までを過ごし、私立の学校で働いているからこそ、家庭次第で大きく子どもたちの可能性が変わってくると思っている。

 

だからこそ、家庭の教育力に対して社会的に見直しをして、家庭に対する支援を充実させたり、NPO学童保育などに支援の手を入れるべきだろう。

 

子どもたちが、社会という目に見えない存在に、不可抗力的に飲まれて、未来を摘まれてはならない。

僕はこの記事を泣きそうになりながら書いている。自分の経験に照らし合わせて、つらい思いを子どもたちにさせるような、そんな社会ではならないと強く、強く思うのだ。

 

上野千鶴子さんの祝辞は目に見えない、私たちを縛る呪いを、可視化してくれるステキな文章だった。

 

toyokeizai.net

 

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教師は感情労働者

 

 

以前教師には感情労働を求められるという記事を書いた。

 

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感情労働とは

感情労働は次のように定義される。

 

相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働のこと。

感情が労働内容にもたらす影響が大きく、かつ適切・不適切な感情が明文化されており、会社からの管理・指導の上で、本来の感情を押し殺して職務を遂行することが求められる。

ホックシールドという社会学者による概念である。

(「感情労働とは?感情労働の職種とストレスについて」より

https://www.kaonavi.jp/dictionary/emotional-labor/

 

現場で働いていて、この説明は非常に腑に落ちる。

実際、対人関係を職務とする職種の人たちは納得される記述だろう。

 

教員の場合「別に本心では怒っていなくとも」叱らなければならない。

「別に楽しくなくとも」楽しい雰囲気を出した方が生徒指導上効率的である。

保護者対応においてもニコニコしていた方が「無難である」。

 

しかし、私は上に書いたような器用なことはできない。

叱るときは冷静に叱るし、楽しくいれるように日々心掛けている。

 

それでも、時には相反する感情を演じなければならない時がある。

 

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感情のコントロールなのか、演技力なのか

教師の職務は、生徒の学びという目的にすべて結実する。

その遂行のために「表出」する感情をコントロールする能力が非常に求められていると思う。ここで、「表出」としたのは、その感情が実際の心の動きと連動しているか否かは問われないからだ。

 

だからこそ、心の底から楽しんだり、生徒を叱ったりする先生もいる一方で、「芸者」に徹している先生もいるのだろう。

どちらももたらす結果が同じであるならば、個人に合った方を選択すればいいと思う。

 

自分の場合は「現状において」心の動きと連動しない形で体を動かすことはできない。

だから、感情のコントロールをする方向性で訓練していくのだろう。

 

感情のコントロールの難しさ

 

以前、アドラー心理学にドはまりした。

しかし、アドラー心理学は自分には合わなかった。根本的な解決をせずに、データを上書きするイメージだからだ。体の不都合があっても、見えないふりをするようなイメージ。原因論の否定なんかは自分には全く合わなかった。

 

今はフロイトを勉強している。

自分の生育過程で奥底に染みついた心の反応は、容易には取り除けない。だから、それを認識することが感情のコントロールの第一歩となる。

 

心理学の重要性、大学の教職課程でもっと知りたかったなあ。

 

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仕事でミスをしても切り替えればいいが、へこむものはへこむ

 

 

 

ヒューマンエラーという言葉がある。

 

blog.mcdata.plus

 

ヒューマンエラーの12分類
危険軽視・慣れ 不注意 無知・未経験・不慣れ
近道・省略行動 高齢者の心身機能低下 錯覚
場面行動本能 パニック 連絡不足
疲労 単調作業による意識低下 集団欠陥

(ケンセツプラス「ヒューマンエラーとは?分類・定義から対策を考える」より引用)

 

何故こんな概念を持ち出したのかというと、まさに今日エラーをしでかしたからである。

 

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しでかした

 2つ。

1つは間違った知識を伝達して、授業後に間違いに気づいたこと。

2つ目は仕事の時間を間違えたことである。

 

前者は、単純にド忘れしていたことが原因である。

予習不足が原因であって、それは事前に十分な時間を取らなかったために生じた。

時間を取らなかったのか、取れなかったのか定かにできないのは自分が時間の使い方を把握していないからである。

お金の収支を把握しないと節約なんかができないように、持ち時間の使われ方を把握しないと隙間時間の確保なぞできない。

手帳に記録をしっかりつけることができないと…

 

後者は確認を怠ったことに起因する。

新人のミスに多い、確認ミス。まさに今回はこれが生じた。

幸いなことに上司に言われて約束の時間に間に合ったが、他律的に動いてしまったことで、部署全体の作業効率・生産性は低下してしまった。

自分の仕事は自律的にこなさなければ…

 

とにかくへこむ

何故かくも、同じようなミスを繰り返すのか。

それは生活の中で仕組化されていないからである。

 

確認ミスは一日のスケジュールを朝、しっかりと立てていないから。

授業の間違いは記録をつけていないから。

いよいよ積読のこちらの本を読むタイミングが来たというべきか。

 

授業を大事にしている人間としては、間違えた知識を伝達したという事実にへこむ。

すぐに訂正したものの、こういうところから教員への信頼は薄れていくだろうから。

今までのラポールのおつりで何とか何とか持っている感じだ。

 

ただいつまでもくよくよしていても仕方がないので、こうやって反省点を文章化して、軽く運動をして、切り替えるようにしている。

反省を次に生かして、より良い教員になろう。

 

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学校の役割とは-基礎集団から機能集団への過渡期-

 

 

若槻千夏さんの発言が波紋を呼んでいる。

 

news zero」の特番「zero選挙2019新時代の大問題」第2部にゲスト出演した若槻千夏の発言が“モンペ”(モンスターペアレント)的だと一時ネットは炎上状態となり、一夜明けて若槻が自身のインスタグラムで謝罪コメントを発表する事態となった。

(中略)

コメンテーターの一人として出演した若槻は、「何かあったらどうするのか。18時以降対応しないで、もし子どもが帰ってこなかったらどうする」などと教師に反論。教師は「それは学校の役目ではなく、たとえば万引きがあったら警察の役目、他に何かあっても親の役目と思う」と意見を述べるも、若槻は「寂しい。もし子どもが帰ってこなければ心配になってさがすが、見つからなかったら学校に電話する。(時間外なら)それも対応してくれないってことですね」と疑問を呈した。 

 

集団の類型論

教師の(期待されている)役割は多い。

学校外でのパトロールであったり、家庭内の問題に対する保護者からの相談対応であったり、幅広い対応が求められる。

しかし、それは教師本来の職務であろうか。

 

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集団は大きく分けて2種類ある。

1つが基礎集団。これは血縁や地縁などを媒介にした集団で、自然に形成される集団である。生まれてから初めて所属するのがこの基礎集団であり、共同体ともいう。

もう1つが機能集団。何らかの目的に基づいて形成された集団で、集団内において目的達成のためのシステムが構築される。学校は機能集団に該当する。

 

ここで問われていることは、学校の機能とは何なのか、ということであり、この発言をきっかけに学校観(教師観?)の違いが噴出したわけである。

 

かつての教師の役割

前述の若槻さんの発言にあるような多様な役割を担う学校観は、1980年代の「金八先生」といった学園ドラマによって構築された感が強い。

1980年代といえば、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れていたころである。

ツッパリ、ヤンキーなどなど。当時教員をやっている方によれば「舐められたら終わりだった」「絶対に笑顔を見せなかった」など、今では信じられないような話を聞く。

 

こうした時代において教員の役割の大きな部分として、「自校の生徒が街に繰り出して迷惑をかけないこと」が求められただろう。

夜回り先生だってたくさんいただろう。

「人間的なつながりを作って、ヤンキーを授業に出させる」。そんな地道な苦労を教育実習先の先生にも聞いたことがある。

 

教員だって労働者

ただ、本来的に言えば、教員は労働者である。

勤務時間を終えた後に業務をする労働上の義務はない。

子どもの管理などは家庭の役割であろうし、犯罪行為に対する対処であれば警察の役割である。

 

どこまでを教員の仕事とするかの線引きが極めてあいまいなまま議論が進んできた。

日本企業もそうだが、ルールが明確でなく、暗黙の了解のような「空気」で組織が動く傾向がある。学校も当然、共同体的に動いてきた。時に家族のように生徒をしかり、地域のように連帯の場となる。

 

だが教員の中心業務は授業である。

グローバルに競争が激化している中で、これからの社会を担う人材を育てるためにも学力の向上は極めて重要な学校の役割である。

街の見回りや際限のない生徒指導で疲弊してしまい、満足に授業準備ができない教員が何人といるか。そのジレンマに苦しみ、知り合いの先生が何人精神病にかかったか。

 

本来の役割に回帰しよう

学校は本来の役割である生徒の学力向上に大きく資するべきであって、授業などの教育活動を中心に据えるべきである。そのためにも教員に十分な余裕を与えるべきであって、それができないのであれば労働に対する報酬を適切に配分すべきである。

 

資源は有限である。教師という教育に特化した集団のリソースは教育活動に投下されるべきである。何のために「教科」の免許を取っているのか。

 

分業によって近代社会は発展してきた。学校も当然、「教育」という強みに特化すべきであろうし、何でもかんでもやるのではなく専門家に任せるべきことは任せるべきである。

そして、際限なき業務は徐々に別の組織へとアウトソースすべきであろう。

具体的には家庭や地域、行政などと役割を分担するべきである。

 

※もちろん、家族機能が低下している現状においては、スクールカウンセラーソーシャルワーカーなどと適切に連携することが必要であると思う。家庭の教育力の格差が子どもの進学や就職に大きく影響を与えていることは何としても是正しなければならないと思う。

 

なにはともあれ、若槻さんの発言は考えてくれる機会を提供してくれた。そのことに感謝したい。

 

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教員の生産性

 

 

去年の教訓


去年、精神的にかなりまずかった時期がある。

 

その時は教材研究に追い込まれていた。

 

地歴公民科や理科の特徴であると思うが、大学や大学院での専門とは全く異なる科目を任されることはよくある。

 

専門ではないとはいえ、きっちりと授業準備をする必要がある。

いや、むしろ専門ではないからこそ、一からしっかりと理解して授業に臨む必要がある。

 

ということをどの科目でもやっていたら、当然時間が足りなくなった。

 

生活の大部分を教材研究に費やす。それでも、時間が足りない。睡眠時間を削る。頭が働かなくなり、効率が悪くなる。授業でも時間をつぎ込んだ割にクオリティが伴っていない上に、疲れているから、うまくいかなかった。それがストレスとなり、ますます効率を下げる。負のスパイラルが一度回ってしまうと抜け出すのは難しい。

 

反省を生かして…

 

今年は去年の失敗を徹底的に避けるよう行動してきた。

 

まず環境面で好条件となったのは、専門科目だけを持つことができている点だ。

学年はバラバラだが、教材研究をしても一定程度の汎用性がある。

 

また去年準備したものを一部活用することで、かなり楽になった。

 

余裕があることは、教員の精神状態に大きく影響する。

精神的な余裕は授業の中でも生徒に伝わり、それが授業の成否、生徒の好反応をもたらす。

生徒が安心して授業を受けるには、まず教えて側が精神的な余裕を持つことが必須である。

次期学習指導要領が授業改革を主眼としているのならば、教員の働き方改革はかなり大事なのであろう。肌感覚で理解できた。

 

そして、こうした経験は次のような信念を私にもたらした。

 

今の苦労はこの先の働き方改革につながる

 

そういう信念が実際の成功体験と相まって、今の自分を突き動かしている。

 

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ただし、まだまだ時間感覚は甘い。

 

 

時間を意識して、有限な資源を教材研究に投下したい。

教材研究の積み重ね、このへんの改革が働き方改革の鍵になるのだろう。

そして、私はこういう余裕のある生活を求めているのだろう。

 

もし学生の方が読んでいるならば、とことん教材を用意することでかなり楽になることはお伝えしたい。

 

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