切迫した状況が、彼を思考停止に陥らせた。
日大アメフト部の選手が関西学院大学との試合中、相手選手へ反則行為をし、重症を負わせた。その件について、日大の選手が謝罪会見を開いた。会見全文を読んでみて、ある作品を思い出した。『エルサレムのアイヒマン』である。
裁判を受けるアイヒマン
人はだれでも悪になりうる~エルサレムのアイヒマンとは
『エルサレムのアイヒマン』とは、アイヒマンというナチスの元役人が終戦後イスラエルで裁判にかけられ刑が執行されるまでを描いたレポートである。アイヒマンはホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)の中心的な責任者である。
このレポートは、ハンナ・アーレントというユダヤ人哲学者が著したものであるが、同胞への非道を行ったアイヒマンを極悪人として描いているわけではない。むしろアイヒマンは「陳腐な小役人」として描かれている。
ちなみにハンナ・アーレントは第二次世界大戦中はドイツ軍に捕虜として強制収容所に送られている。そこで何があったのか、言葉にすることさえはばかられる経験をしてきただろう。アーレントは収容所での経験を語ってはいないが、すさまじい体験をしたことは容易に想像できる。
アイヒマン裁判をアーレントはこう見た
裁判の陳述で、アイヒマンはこう述べている。
「自分は上司からの職務命令を忠実にこなしていただけであり」、「直接ユダヤ人に手をかけていないのだから罪の意識もない」
さらにこう述べている。
「ユダヤ人に対する敵対感情はなかった」が「総統の命令に逆らえるような雰囲気はなかった」
こうした傍聴記録を通じて、アーレントはアイヒマンを「普通の人」と評した。彼はただ単純に上からの命令をこなしただけであり、ホロコーストという「悪」の責任を彼個人に帰すべきではない、と。
アイヒマンは善悪の判断をなせる人間ではなく、命令を忠実にこなすマシーンだったのだから。つまり、アイヒマンは思考停止に陥っていただけで、大きな悪に加担していたものの、自らが悪だという意識は全くなかった。
ここで、アーレントは人間である条件を思考することに求める。
思考をやめてしまえば、それはもう機械に過ぎないのだ。
もちろん、こうしたアーレントの評価はユダヤ人から大きな非難の的になった。しかし、それでも私は冷静に考え続けたアーレントはあっぱれだったと言いたい。
凡庸な悪はどこにでもいる
話をアメフト部の件に戻そう。日大の選手は監督やコーチから命令(圧力)があったと言っていた。そして、プレッシャーの中で反則行為をしてしまい、その後は思考がとまってしまったとも述べていた。つまり、彼は極度の緊張状態の中で思考停止に陥り、監督やコーチの命令に従う機械となり果てたのである。しかし、彼がアイヒマンと異なったのは、良心の灯を捨てなかったことである。
実名と顔を出して会見に臨み、誠実に反省の意を表明したことは加害者としての罪の意識を持っていた証拠であろう。そして、自らどうすべきかを考え、償いのために行動したのである。十数年も逃亡生活を続けたアイヒマンと異なり、すぐに行動に移したところに彼の誠実さがあった。
今回の問題が示唆するのは、誰しもが思考停止に陥る可能性があるということである。極端な権力関係の中で、はたして正常に考え続けることができるのか。社内でもし組織的な不正行為があったならば…(雪印の不正告発)、部活動の試合で相手選手の選手生命を絶たせるようなけがをさせろと監督に言われたら…。もしそうした状況に直面して胸を張って考え続けることができるといえるだろうか。
日常の至る所に思考停止の芽はある。私たちは命令を実行する忠実なマシーンではない。人間であるために考え続けることの大事さを改めて認識した。