世の中で「先生」と呼ばれる職業との営業の際には、一般の顧客以上に説明を要するらしい。基本的に疑ってかかるために、多くの情報を提供しないと信用しないからだそうだ。そんなことを営業職の方から聞いた。
自身の利益がかかっているのだから当然の態度だとは思うが、これが国益という広範な範囲にまたがる利益であれば尚一層のこと求められる態度なのだろう。しかし、人はしばしば相手の情報をうのみにしてしまう。その結果として、大きな損失を被ることもある。そうした戒めのモデルケースとして江戸幕府の役人に学ぶことは多い。
舞台は160年前
今から160年前、日本とアメリカとの間で通商条約が結ばれた。日米修好通商条約である。すでに1854年の日米和親条約で日本は開国しており、通商条約の締結自体は必至のことであった。問題は積極的に開国するか、やむを得ず開国するか、ということだった。そうした状況下、国際法も十分に理解していない幕府の役人が対外交渉に臨んだのであった。
ハリスは江戸に赴いた際、当時の老中堀田正睦の自宅を訪ね、大演説を行っている。その内容は次のようなものだ。
アメリカの「親友のような」日本との友好関係
アヘン戦争に見られるイギリスの脅威
クリミア戦争、アロー戦争によるイギリス・フランスの脅威
アメリカがいずれの戦争にも参加しなかった平和主義の国であること
アヘン貿易をするイギリスの害悪、アヘン害悪の忠告
(井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』講談社学術文庫、p.217:一部省略および改変)
堀田はハリスの演説に圧倒されたそうだ。しかし、情報を鵜呑みにすることはなかった。演説の内容はすべて記録され、勘定奉行によって全ての情報が点検された。その結果、以下のことが判明した。
明らかになったのはハリスのウソ
まずアメリカが平和主義の国であるということに関して、メキシコとの戦争でアメリカがカリフォルニアを奪取したこと、その後、賠償金の代わりにニューメキシコを奪取したという事実から、アメリカが非侵略国であるという説を否定している。
また、アメリカがアヘンの害悪を忠告する友好論に関しても、アメリカがトルコのアヘンを中国に運んでいるという記事を見つけ、ハリスの虚言が暴かれた。
こうしてハリスを徹底的に批判した勘定奉行たちの点検が、堀田の外交路線に反映された。つまり、積極的にではなく、やむを得ず開国するというものである。その後、日本国内で貨幣流出や輸出超過などに伴うインフレといった経済的混乱が生じたことからも、やむを得ず開国という決断は適当だったのではなかろうか。国際法の理解は不十分だったとはいえ、事実を見極め、冷静かつ慎重に判断を下した江戸の役人の態度は、決断を下す局面において大いに参考となる。
不易と流行…時代が変わっても変わらず大切なものがある
利益がかかっている局面において、このような事実を見極める態度の重要性は現代でも変わらない。アメリカの輸入製品への関税引き上げに対して、中国やEUが報復措置として米製品への関税引き上げを行った。そうした事象の背景には、首脳陣の交渉だけでなく、表舞台には出ない外交官たちの苦悩もあることだろう。外交交渉というものは激しさを伴う。国益を左右する立場にいるという重圧は想像を絶するものであり、時には相手を委縮させるためのハッタリも必要だろう。それはどんな時代も変わらない。
ハッタリを多用し、しかも現下の貿易紛争の渦中にいる人物といえば、トランプ大統領だ。トランプ氏が大統領に就任してからまもなく1年半が経とうとしている。半年前の記事であるが、彼が就任してからついたウソの数は2140に上るという(2018年1月時点で2140である)。
現代は情報が氾濫している時代である。何が真実かを見極めるには、一次情報などの資料を読み込み、当該情報と照らし合わせ、つぶさに点検していく態度が重要なのだろう。それは国益に限らず、個人の利益においても同様である。ポピュリストが甘美な言葉を国民に投げかける政治状況においても、金融機関が「必ずもうかる」という誘惑をかけ、融資を持ち掛ける経済状況においても、江戸幕府の役人のような態度を持っていれば、甘い言葉に騙されることはない。冷静に事実を見極め、自分自身で判断を下すことを大事にしていきたい。