Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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ざっくり冷戦史

 

冷戦とは?

 アメリカとソ連を中心にした政治的・軍事的・思想的な対立である。

1945年のヤルタ会談から1989年のマルタ会談までの間で対立が繰り広げられた。

ちなみに冷戦(Cold war)とは、米ソ両国の直接戦争(Hot war = 熱戦)を伴わない対立状態のこと。

冷戦をとらえる枠組み

冷戦は40年以上にわたって続いた対立である。

スポーツでも試合時間中、ずっと試合が白熱しているわけではない。所々で展開の進まない時間帯もある。冷戦も同様だ。

したがって冷戦をとらえるには、米ソの軍事的緊張が高まる時期緩む時期を区分することがポイントになる。

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具体的に冷戦を整理すると

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緊張と緩和の繰り返し

緊張Ⅰ【冷戦の開始】

第二世界大戦

そもそもアメリカとソ連は国家理念が180度異なっていた。

アメリカが掲げる資本主義私有財産の保障や競争社会を是とする。その一方で、ソ連の掲げる共産主義*1私有財産を否定し(国有財産)、平等な社会を理想とする。

米ソが協力して戦った第2次世界大戦の終わりごろから、両国は対立し始める。

ヨーロッパや日本の戦後処理を決めたヤルタ会談で、米ソの思惑の違いから双方に不信感が広がった。特に会談での取り決めに反して、ポーランドソ連共産党政権を立てたことで対立は決定的となった。

アメリカを中心とした西側陣営、ソ連を中心とした東側陣営に分かれて世界が争う萌芽がここで生まれたのである。

軍事的に見れば、米国が核兵器を唯一保有していたものの、科学技術や経済力の面ではソ連が上回っていた

戦後

ソ連は戦後東ヨーロッパに社会主義政権を樹立していく。

共産主義の拡大に危機感を抱いたアメリカは、ソ連への敵対政策を展開していく。

まずヨーロッパへ無償経済援助を行うことで西ヨーロッパ諸国を自陣営に組み込んでいった(マーシャル=プラン)。しかし、こうした西側の動きに反して、ソ連を中心に東ヨーロッパ諸国は結束を強めていく。

東欧諸国はアメリカからの援助を拒否し、独自の経済協力機構(コメコン)を結成する。

経済的な対立の一方で、軍事的には西側では1949年にNATO、東側では1955年にWTOワルシャワ条約機構)が発足し、軍事的な対立も深まっていく。

ここでヨーロッパにおける東西冷戦の枠組みが確定した。

また、ソ連が1949年に水爆実験に成功することで、両国の軍事的な均衡状態が生まれる。

緩和Ⅰ【雪どけ】

きっかけはスターリンという独裁者の死だった。後継者であるフルシチョフスターリンを批判し、アメリカとの平和共存政策を打ち出した。

これによって、米ソの対立が緩み始めた。ソ連アメリカ、イギリス、フランスの首脳がジュネーブに集まって会談が開かれ、両陣営に融和ムードが広がった。

緊張Ⅱ【キューバ危機】

しかし、融和ムードも突如として終わりを迎える

きっかけはソ連キューバに核ミサイルの基地を建設したことだった。

キューバの位置を確認すれば、アメリカの目と鼻の先にあることがわかる。

ミサイル基地はシカゴやワシントンを射程範囲に含んでいた。

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アメリカはソ連の核ミサイルが運び出される前に海上を封鎖することを決めた。

ここで米ソは核戦争の危険に瀕する。

しかし、両国の交渉の末、キューバのミサイル基地は撤去され、危機は回避された

キューバ危機の翌年、米ソ間でホットライン(直接の電話回線)が設けられ、両国の間で直接対話ができるようになった。

緩和Ⅱ【デタント

キューバ危機以降、米ソ間では軍縮が進み、融和ムードができていく

1970年代に起きた米ソ間の緊張の緩和をデタントという。

デタントを象徴するのは次の2つである。

 ①米ソの核軍縮 ②ヨーロッパにおける東西の融和

この時期には、米ソ間でミサイルの数量制限に関する条約が結ばれたり(SALTⅠ)、ドイツの積極的な外交によって東西ヨーロッパ間での対話が進んだりした。こうした融和ムードから冷戦は終わるかのように見えた。

緊張Ⅲ【新冷戦】

しかし、1979年にソ連アフガニスタンに侵攻することで再び米ソは緊張状態に入った。ここで新たな軍事的緊張状態に突入していく。

アメリカのレーガン大統領はソ連「悪の帝国」と呼び、宇宙からレーザー光線でミサイルを迎撃する計画(SDI)を打ち立てた。ソ連への対抗姿勢を明確にする。

アメリカの姿勢に呼応してソ連も軍事拡張を進めていく

米ソの軍事的競争の激化は、両国の財政赤字の拡大をもたらした。

ソ連国内では公的予算のうち軍事支出が拡大し、民生予算が圧迫されていく。

政権党である共産党は限られた富を独占し腐敗していった。もはや国民生活は限界を迎えていた。こうした中でゴルバチョフソ連のトップに就任する。

緩和Ⅲ【冷戦の終結 

ゴルバチョフが取り組んだのはソ連の改革であった。

彼の改革は以下の3点である。

ペレストロイカ(政治経済制度改革)②グラスノスチ(情報公開)③新思考外交

①はソ連国内の立て直しを図るもので、資本主義的要素の導入など経済的な改革が行われた。

②が導入された背景にはチェルノブイリ事故の隠蔽があった。ゴルバチョフは情報公開を進め、マスメディアなどに表現の自由を与えた。

③では軍縮と米国との協調が進められていった。1986年には米ソ間で中距離核戦力全廃条約が締結され、戦力の削減が決められた。

1989年にはアフガニスタンからの撤退が完了し、こうした東西の軍縮の流れの中で米ソの対立が終わりを迎える。

1989年に地中海のマルタで米ソの首脳が集まり、冷戦の終結が宣言された。ここに米ソの冷戦は終焉した。

冷戦を学ぶ意義

来年で平成が終わる。30年続いた平成の幕開け米ソ冷戦の終結の年でもあった。

平成は冷戦という枠組みから脱却した期間でもある。そのために現代を理解する上で冷戦の理解は欠かせない。

たとえば、冷戦後には民族紛争が激化した。東西陣営という行動原理が崩壊したために、民族主義・宗教が噴出したからだ。

また米中冷戦を理解するには、米ソ冷戦のアナロジーで考察することもヒントとなる。かつてはイデオロギーの対立だったが、現在は何をめぐる対立なのだろうか。

*1:共産主義社会主義の発展形であるが、ここでは同じものとして扱う。ただし、厳密に言えば両者は異なる。