今日は9月1日。
長い長い夏休みが終わり、新学期が始まる日である。
夏祭りに花火大会、海にBBQ。イベントが目白押しのこの季節、ある生徒は部活に打ち込み、ある生徒は受験勉強にかかりっきりだったかもしれない。
思い思いの夏を懐古しながら生徒たちは登校してくる。中には好き放題遊べた夢のような時間から、はっと目が覚めるこの日がとても憂鬱な生徒もいるだろう。
ただし憂鬱なのは生徒だけでない。教師とて憂鬱なのだ。
なんという自分勝手な教師か!と思われるかもしれない。
確かに世間一般の教師とずれていると思う。
その証拠に、生徒に会えるのは楽しみだ!という先生方の多いこと。きっと学級経営や授業運営がうまくいっているのだろう。あるいは生徒が心の底から好きなのかもしれない。
けれども、私の場合は1学期の授業運営があまり納得のいくものではなかった。もちろん新卒だから仕方ないのかもしれない。しかし、授業に関して悩みは際限なく出てくる。しかし、目の前の業務に忙殺されて、悩みを分析する時間がなかった。
考える時間のなさ、そして放置したままの数々の悩み。それらが尾を引いて、これからの憂鬱な気持ちを作っているのである。
そんな甘えを抱きながら、ネットサーフィンに勤しんでいると面白い記事を見つけた。
表題は「ナンパ師に出会った話」である。だが私がビビッときたのはナンパに全く関係のない箇所であった。
僕らは何かに”依存”して生きている。確かにそうだ。バイトもせずに親の金で一人暮らしをし親の金で留学に行き親の金で良いスーツを作って就活をする。大学にはそんな甘ったれた奴がわんさかいる。でも彼らは経済的に余裕のある家に生まれたからそういった生活を享受できているわけで、そういう環境には生まれなかった僕の僻みにすぎない。だが僕は自分の力で何かを切り開こうとしている人の方が好きだ。
”現状維持では後退するばかりである。”
かつてウォルト・ディズニーはこう言った。僕は常に何かと闘い、周りを出し抜き、少しでも上を目指さなくてはならないと思っている。人よりも上に立ちたい。そういう思いが僕にはあった。でも大学に入り予想以上に生ぬるい周りに流され、その情熱は失われつつあった。普通に単位を取り普通に就活し、普通に卒業する。それだけでも不自由のない生活は得られるだろう。だけど、そんな平凡な生活は僕の求めているものではない。イノウエのように上を目指し、世界に飛び出し勝負を賭ける。僕が望んでいたのはそういうスリルのある生活だった。彼の東南アジアでビジネスをしたいという夢を聞いて、僕の眠っていた想いが呼び覚まされた。
自分がいかに甘えているか、反省した。と同時に胸が熱くなった。
いつの間にか「生ぬるい」環境を自分から作り出していた。
水は低きに流れる。自分から自堕落な環境へと突入していたのだ。このままだったら、一流の教師どころか普通の人にすらなれないかもしれない。
教職をとる決断をした大学生のころの情熱、内定をもらい教師になったらこんなことをしたいというワクワク感、それらは忘却の遥か彼方に置き忘れていたのだ。
まさに脳天を直撃する言葉だった。
目の前の仕事に忙殺され、忘れていた気持ち
なぜ教育界に飛び込んだのか、それは社会をよくしたい、そのために良い人材を育てたいという思いからだった。
”教師としての成長が巡り巡って生徒へ還元されるんだ”
だからこそ授業の工夫をして、毎日反省して、試行錯誤して、それを活かすという繰り返しの日々だった。
だけども体力がそれを許してくれなかった。睡眠時間を削って授業準備をしていた日々は次第に破綻していった。
けれども、長い長い夏休みは休息には十分だった。
問題は、それに見合うだけの気持ちが追い付いていなかったということだ。
記事を読んで、自分が甘えていることに気づかせてくれた。
常に向上心を持って、自分磨きを怠らなかったのが私の長所だったはずである。
成長を求めることが私のアイデンティティだったはずだ。
そもそも失敗したのは、挑戦できたからだ。挑戦しなくなれば、もはや成長することすらできない。
この記事はそんな自分の本来の姿を思い起こさせてくれたのだった。
いつだって読み物との出会いが人生を変えてきた
アドラー心理学 西洋哲学 7つの習慣 白洲次郎 大村はま 論語
これらは私の人生のバイブルである。
他にも数多の本が私に気づきを与えてくれた。その度に悩みに対して示唆を与えてくれた。
良い本との出会いは人生の糧である。時に人生観を変えることもある。
中島diaryを読んだら、少なくとも明日への心意気に変化があった。その意味でとても良い記事だった。
こんなまじめな記事を書いたが、中島diary自体は読み物としてとても面白いので、おすすめしたい。