Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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わたしが教師になったわけ 原体験としての1945と2009

教師になって約半年。

節目ということで、なぜ教師になったかを振り返ってみた。思い起こせば社会をどうにかしたいという気持ちがあった。

 

私の針路を決めた決めた出来事

原体験としての政権交代

 

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高校生のころから政治に興味があった。正直かなり特殊な高校生だったと自負している。笑

 

時は2009年にさかのぼる。衆議院選挙の真っ最中、自由民主党から民主党へ大規模な政権交代が行われようとしていた。二大政党制が日本に定着するか?!なんて言われていたのもこの頃だ。

 

そのころ、メディアは自民党バッシング一色だった。反自民の意見が大勢を占め、民主党政権交代は秒読み状態だった。

高校生ながらに思った疑問が「民主党を支持するのはなんでだろうか」というものだった。

そこで周囲の大人に徹底的に聞いて回った。

 

「なんで民主党がいいの?」

 

自民党にお灸をすえるため」

自民党が嫌いだから」

 

みな同じような回答をしてきた。それから具体的に何が悪いかを答えてくれる人は皆無だったと思う。

 

結果として民主党政権交代は実現した。

と同時に強く思ったことがある。

 

なんだ、大人もあまり考えてないんだな…

 

そして、私は政治学を学ぶ決心をした。

当時の私にはこの出来事がなぜ起きたのか全く分からなかった。なぜ人々は民主党を支持しているのだろうか、逆に自民党を支持していないのだろうか、と。

 

そして、今では確信を得ている。

衆愚政治は絶対に避けるべきだと。

もちろん、過去の選択が間違えだったというのは結果論の話だ。私と違う考えを持つ人もいるだろう。でも、あの政権交代は間違いなく私の原体験として強く心に刻まれているのだ。

 

(民主主義は社会のあらゆるメンバーが決定に参加するシステムである。だから個々人が考える能力を有することを理想とし、一人ひとりが冷静に考えることが求められる。こういう理想が掲げられている一方で、人々が大して考えていないこと、そして周囲に流されているという現実に私は強い危機感を抱いたのだ)

 

私の学問の方向性を決めたのは間違いなく2009年の政権交代にある。

 

アイデンティティとしての祖父

 

私が政治学の中でも政治理論を学ぶようになったのは祖父の影響が大きい。

 

祖父は私のあこがれだった。大戦中は理系だったために学徒動員を免れ、戦後は某企業に勤め、退職後は大学教授を務めた。

 

そんな祖父も亡くなってしばらくたった時のことである。

書斎を整理していると、祖父の自伝があることに気づいた。祖父の生まれから、死ぬ直前までの出来事が事細かに書かれていた。そこには衝撃的なことが書かれていた。

 

母親を原爆で亡くしたこと。

治療のかいもなく、原爆投下から4日後に亡くなったこと。

 

衝撃だった。大切な人を目の前で亡くすつらさは想像に堪えない。

 

その後、祖母にこんなことを聞いた。厳格でめったに感情を出さない祖父が死の少し前に人前で泣いた、と。

お酒を飲んで涙腺が緩んだからか、母(私から見て曾祖母)を亡くしたことを思い出したそうだ。

祖父の苦しみを想像すると涙が出てきた。

 

若気の至りか幼稚さゆえか、しばらくは反米思想を持つようになった。非常に短絡的だったが、原爆の強烈なインパクトゆえにやむを得なかった面もあると思っている。(今は特にそういうわけではない。アメリカは素敵な国だし、アメリカ人も素敵な人たちだと思っている。)

 

 

反米的な考えは太平洋戦争への興味につながった。

そこから、東京裁判や原爆の正当性など正義とは何だろうかと考えるようになった。

正義への疑問は哲学への興味へとつながった。そのおかげで、まず疑ってみるという姿勢を持てる土台になった。社会の理不尽さにも疑問を抱くようになった。

 

考えることは疑うことからスタートする。

近代哲学の父と言われるデカルトは、あらゆることを疑って自身の哲学を完成させた。

疑うことは考える上でとても大切なことなのだ。

そして、一人ひとりが考えることは民主主義を機能させる上でも大切なことなのだ。

 

こうした経緯があって大学院で民主主義理論を学んだ。

 

教師としての自分と民主主義

教師になったわけ 

教師になったのは、かつての過ちを繰り返さないためである。

つまり、周囲に流されずに自ら考えられる人々を育てることで、民主主義的な社会を作っていこうという気持ちがベースにあったからだ。

個々人の能力が高くなれば、社会はよくなっていく。そういう確信が教職に向かうモチベーションになっているのだ。

今後の社会では一人ひとりが考える能力を高めていくこと、そして共同して納得解を導き出すことが求められている。でも、それらは民主主義社会にとって本来的に非常に大事なことなのだ。

 

民主主義を支える資質と能力

最後に人々が身につけるべきだと私が考えている能力・資質を書いておこう。

ただし、未だにこれらの明確な形は見えていないし、今後アップデートしうるものであることは付言したい。

 

学習力:自ら課題を発見し、そのために必要な知識を調べ、習得しようとする態度

想像力:社会的想像力:同じ社会の困っている人がいることを想像できること

寛容さ:多様な価値観の存在を認め、それらを尊重できること

思考力:自らの持つ価値に従って論理的に考え、事象の結果を予測できること

判断力:自らの価値に従って様々な選択肢の中から決定できること

 

民主主義は参加する市民が常に政治をよくしようとすることで正常に維持される。単に参加が拡大しても、政治的に成熟した市民がいなければ、それは動員というのだ。

民主的であろうと行動する市民、それが民主主義社会が求める理想なのである。