シンガポール、と言えばトランプ大統領と金正恩氏の会談が開かれた場所として記憶に新しい。
そんなシンガポールがどのような歴史をたどってきたかを簡潔につづった一冊。
シンガポールは多様な顔を持つ。経済成長率は平均して高く、日本よりも一人当たりGDPは高い。今も発展を続ける先進国としての一面がある一方で、街を歩けばインド系、中華系、マレー系と多様な民族から成る多民族国家としての一面ももつ。
そうしたシンガポールの多面性の成り立ちを歴史から紐解いていくのが本書である。
シンガポールの歴史
シンガポールは元々、人がほとんど住んでいない森林地帯だった。ここに目を付けたのが、イギリス東インド会社のラッフルズである。彼がここを1819年にイギリス領としてからシンガポールの発展の歴史が始まる。
イギリスの植民地時代には自由貿易港とされ、中国とインドとの中継貿易の拠点として栄えた。各地から職を求めた移民が大挙したことが現在の民族分布の基礎となった。中華系、マレー系、インド系である。
日本軍の占領統治下では昭南島と改名され、軍政下におかれた。貿易は途絶え、資源が乏しく自給自足の叶わぬ国土の下で人々は貧困にあえいだ。また当時日中戦争中の日本軍は中国人を弾圧し、多くの中国人が処刑された。
戦後、すぐにイギリス統治下に復活するが、日本軍の圧政があったからか、人々はそれを熱狂的に歓迎した。しかし、もはやイギリスに植民地を維持する力はなく、シンガポールは独立という方向へと向かっていく。
まずマレーシアとの統合が叫ばれた。食料や水など資源の大半を依存するマレーシアとの統合は国家の生存戦略として極めて重要だったからだ。
結果的に統合は実現する。しかし、シンガポールの中心は中華系であり、マレー系が大半を占めるマレーシアとしばしば対立してしまう。そして、1965年マレーシアから追放される形でシンガポールは独立を果たした。ただ、当時のリー・クアンユー首相にとってはマレーシアとの分離は初めて味わった大きな失敗だった。
ここからリー首相の下でシンガポールは驚異的な経済成長を遂げていく。いわゆる開発独裁であり、エリートが開発を担うシステムが構築されていく。
それは政治的自由を抑圧し、政権の政策に異を唱える勢力をつぶして政策の実行力を高める代わりに、経済成長を飛躍的に実現し、そうして得た利益を国民に配分していく、というスタイルだった。だからこそ、エリートの育成は国家的な急務であり、能力主義の教育システムが構築された。
首相が第2代のゴー・チョクトン、第3代のリー・シェンロンンと変わってもリー・クアンユーが上級相や顧問として監督するシステムが作られ、政治的自由を抑圧する権威主義的な体制は変わらなかった。
しかし、2011年の総選挙で与党である人民行動党が87議席中6議席を野党に譲ったことで、そうした流れが変化した。リー首相が表舞台から身を引いたのである。
今後、「経済成長」を至上命題に掲げるシンガポールが国民の政治的自由に配慮するかどうか、経済成長を一定程度遂げた国家がどのように変貌するのか、注目に値するだろう。
日本の未来を占う歴史
シンガポールの歴史を知ると、日本の経済政策の先取りをしていることがわかる。たとえば、観光立国としてのカジノの誘致や、輸出による外貨獲得を元手にした投資立国、そして建設業などの単純技能分野での外国人労働者の雇用である。
まさに今の日本で議論されている問題の先行事例が豊富にある。
そして、こうした経済政策を決定するエリートを生み出すのがシンガポール独自の教育システムである。
シンガポールの教育システム
シンガポールは極めて能力主義的な国家である。エリートが国家のかじ取りをし、持続的に経済成長を達成するという点にそのシステムの特徴がある。そして、エリートかどうかふるいにかけられるのは早期の教育段階においてである。
早い段階の試験でほぼ一生のコースが決まる。その制度的背景には、人間は才能によって能力が決まるため、政府の義務はその能力の有無を見極めることとする効率性の原理が採用されているところに特徴がある。
(本書P120より)
早い段階のコースとは、小学校や中学校の卒業時のテストのことだ。ここでの成績によって、中学校や高校が決まり、ほぼその人の一生が決まるといっても過言ではない。大器晩成を許さない、ある意味で窮屈な教育システムは日本と大きく異なる。
だが、「国家の発展の礎は高度な能力を持つ人材にかかっている」というシンガポールの国情ゆえにそれはそれで仕方ないのだろう。逆に言えば、ここでエリートが生まれなければ、シンガポールの発展はなくなるといえるのだ。
ちなみに、人間は才能によって能力が決まるという考えはリー・クアンユー元首相の考えであり、ここからシンガポールがリー・クアンユーの考えを体現した国だということがわかる。