中東、と言えば様々なイメージが飛び交う。
シリアやパレスチナといえば紛争の最前線だし、サウジアラビアやUAEはオイルマネーで潤う王族の国だ。
その産油国が世界経済に及ぼす影響力は大きい。1980年代の中南米諸国の工業化は中東諸国のオイルマネーが流入した結果起こった。
しかし、200年前にはこの地域は大部分が砂漠で、寒村が点在する程度だった。
それがどのようにして現在のような大産油国の発展したのだろうか?
一つ言えることは、中東は大国に翻弄されてきた、ということだ。
以下の内容は酒井啓子『〈中東〉の考え方』の一部をまとめたものだ。
湾岸諸国の歴史
大英帝国の支配
ヨーロッパにとって中東が重要だったのはインドと自国を結ぶ途中経路だったからだ。
当時強大な国力を有していたオスマン帝国を回避してインドとの交易路を確保するには、海洋を経由するほかなかった。
特にインドとの交易が死活的に重要だった大英帝国はアラビア半島とインドの間の海洋安全保障を盤石にしようとした。
元々アラビア半島には小さな漁村が点在する程度であり、石油の気配すらなかった。
さらには部族が激しく抗争を繰り広げており、統一的な権力が存在しなかった。
そこに交渉をけしかけてきたのがイギリスだった。結果、部族とイギリスの間で結ばれたのが休戦協定である。
この協定では、部族の抗争をイギリスが仲裁し、彼らを支配に組み込むというものだった。
イギリスにとってはペルシア湾岸の安全が保障され、部族にとってはイギリスの庇護の下ではあるが一国の首長に格上げされた。お互いにメリットのある協定だった。
たまたまその地域にいた部族が大英帝国のお墨付きを得て繁栄したのだ。
こうした偶然的に独立を果たした国とは異なり、サウジアラビア(サウード家)は自力で独立を果たした。1818年,1824年とサウード家は自らの王国を打ち立てたが、当時その地域を支配していたオスマン帝国にたちまち打ち砕かれてしまった。
転機は英独の対立だった。
英独の対立
帝国主義政策をアジア・アフリカで繰り広げていた英独の対立は第一次世界大戦で頂点に達した。
ドイツ側についたオスマン帝国の牙城ではイギリスが工作を展開していた。
有望家のハーシム家を利用し、反乱を扇動していた。一方で、サウード家も独自に反乱を展開していった。
第一次世界大戦後は民族自決の理念が提唱されたため、イギリスはその批判をかわすために、中東に委任統治領を設置する。その任を任されたのがハーシム家だった。しかし、その後サウード家が躍進し、ヒジャーズ地方(アラビア半島の紅海沿岸)を支配していった。
ここでイギリスとサウジアラビアとの不仲につけこんで接近したのがアメリカだった。
アメリカの本音は中東の石油の確保だった。
1933年にアメリカの石油会社とサウジアラビアが提携し、それ以後経済的・軍事的に関係を深めていく。
米ソ冷戦
1945年から1989年にかけてアメリカとソ連が二大陣営に分かれて争い合った。冷戦だ。
冷戦の影響は中東にも及んでいく。
当時、西側諸国にとっての脅威は「中東諸国の油田地帯がソ連の支配下となる」ことだった。
一方で、サウジアラビアにとっても脅威が近づいていた。周囲の国家が次々に共和制国家と変わり、自国内でも反王制派が勢いづく中で、自国の体制を護持することが急務となっていく。
共和制国家はアラブ民族主義を掲げ、イスラエルに対して4度の中東戦争を仕掛ける。エジプトのナセルは1956年にはスエズ運河を国有化し、欧米の支配に立ち向かった英雄としてアラブ諸国から喝采を受ける。
一方で中東の産油国はカネも出さないし、血も流さないというように、共和制国家に引け目を感じていた。
ちなみにアラブ民族主義とはアラブ民族がまとまるべきという思想であり、これらを採用した国々の多くは貧困層に配慮した社会主義政策を取り入れた。
そうした左派共和主義国家は、イギリスの衰退でさらに伸長していく。
1968年、イギリスがスエズ運河から東の地域から撤退を宣言した。
今までイギリスの庇護の下にあった湾岸諸国家が独立を果たしていった。
しかし、権力の空白地帯に争いが起こるのは歴史の常である。
新たに独立を夢見る勢力が政権に剣を突き付ける。それがイエメン内戦だった。
イエメンに共和制政権が誕生し、かつての王制派との内戦に突入した。エジプトは共和制政権を支持し、サウジアラビアは王制派を支援する。サウジアラビアの隣国イエメンで大国同士の代理戦争が勃発したのだった。
周囲を共和制国家に囲まれ、王制の危機に瀕したサウジアラビアは戦略を打ち立てる。
民族主義に代わって打ち立てたのが、「イスラームの盟主」としてのサウジアラビアという方針であり、それを通じてイスラーム諸国との関係改善を図った。
そして、それを可能にしたのが1973年の石油戦略の発動だった。
石油危機
第二次世界大戦後、かつての植民地諸国が政治的には独立しても経済的には旧宗主国に従属していた。この問題を南北問題という。
中東における南北問題の象徴は石油資源の欧米メジャーによる独占だった。
そうした支配に対抗するために石油産出国が結束して、1960年にOPEC(石油輸出国機構)、1968年にOAPEC(アラブ石油輸出国機構)を結成した。
そして転機が訪れる。
1973年の第4次中東戦争をきっかけに、OAPECがイスラエル支援国に対する石油禁輸を発表した。さらにOAPECが石油価格を引きあげたため、石油価格が4倍に跳ね上がる。
こうして起こったのが石油危機、オイルショックだった。
欧米や日本をはじめとした先進国は経済的に大きく打撃を受ける一方で、アラブの産油国は発言力を高めていった。
石油危機を契機に産油国の国庫に大量のオイルマネーが流入する。
産油国は非産油国やイスラエルの隣国などへオイルマネーを活用した経済援助を行う。パレスチナ問題に関して、血は流さないがカネは出すという姿勢の表れであり、これを通じてアラブ諸国の間で地位を確立していった。もはやアラブ民族主義国家は産油国のカネに依存しなければ生存できなかったのだ。
また石油危機の際に先進国に対抗できた事実によって、アラブ諸国の中で一目置かれるようになった。
1973年の石油危機を端にして、イスラエルに武器を取って戦うアラブ民族主義国家の優位は、カネを出して援助をする産油国に取って代わられたのである。
産油国の特徴
サウジアラビアやクウェートなど産油国において、外国人労働者の割合は非常に高く、人口の7~8割を占める。
これら国々は王制であり、体制の維持が最大の目的である。
当然国民の政治的自由は抑圧されている。
それでも不満が噴出しないのは、税金を取らずに潤沢なオイルマネーによる利益を国民に分配するからだ。ちなみにそうした国家をレンティア国家という。
また自国の軍隊はかなり貧弱だ。それもそのはずで、アラブ諸国では軍事力を拡充した結果、軍隊がクーデターを行い、政権を奪取するという歴史が繰り返されてきたからだ。エジプトしかりシリアしかりである。
軍隊の拡大は王制の崩壊につながる可能性を持つ。
だから、産油国は自国の安全保障を周囲の軍事大国に依存する。
その際に役立つのがオイルマネーであった。
たとえば、1979年のイラン革命は革命の余波が王制国家へ及ぶ危険があった。
そこで隣国のイラクに軍事支援を行った。
また1988年のイラン・イラク戦争でもイラクを経済的に支援する。その結果勝ち残ったイラクは中東屈指の軍事大国となる。
冷戦の終結と湾岸戦争
戦争が終結し、もう脅威は消えた。そこでクウェートはイラクにカネを返せと言う。しかし、イラクとしては産油国の防波堤として奮闘したのだから返さなくてよいという認識だ。
こうしたいざこざを背景として、1990年イラクがクウェートに侵攻する。湾岸危機だ。
この時、イラクは「パレスチナからイスラエルから撤退するなら、イラクはクウェートから撤退する」と宣言した。
アラブ諸国の支持を買うため、パレスチナ問題とクウェート侵攻を結びつけたのだ。
ところが戦局はイラクの思い通りにはいかなかった。
アメリカが介入し、イラクとの戦争に突入したからである。湾岸戦争だ。
おりしも1989年に冷戦が終結しており、アメリカを敵に回してもソ連に泣きつけばよい、という冷戦中の常識は通用しなくなっていた。アメリカが重い腰を上げて中東の紛争に介入したのだ。
そこでイラクが選んだのはアメリカと戦い、英雄となる道だった。
だが、結果は惨敗。イラクの敗北という形で、あっという間に戦闘は終結した。
戦争終結後、アラブの産油国はパレスチナから距離を置いていった。湾岸戦争まではパレスチナへの支援を通じてアラブの大義を果たしていたが、PLOがイラクを支持したことから湾岸戦争後はその援助を打ち切る。アラブ諸国家の連帯は湾岸戦争を契機に崩れ去った。
ちなみに湾岸戦争以後、アメリカはサウジアラビアに駐留するようになる。
これが後々9・11の遠因となり、中東の混迷を深める一因となる。
それにはアフガニスタン情勢や冷戦中の中東の動向を詳しく理解しなければならない。
その後、9・11をきっかけに産油国と欧米の関係が悪化する。
欧米への投資を控えた一方でオイルマネーはドバイの開発へと向かう。
これがドバイを世界有数の都市へと押し上げた理由である。その後もドバイは発展を続けている。
サウジアラビアってどんな国?
王制国家であり、自国民は3000万人ほど。
体制の維持のため政治的自由を抑圧しているが、近年は自由を認めるようになっている。
軍事力は他国に依存している。
本書の魅力
本書の内容の一部をまとめてみた。
中東情勢は複雑ゆえに手ごわい相手だが、わかった時の爽快感は得も言われぬものがある。
本書の出版は2010年とアラブの春の前なのでやや古く、トルコやシリアにはあまり触れられていない。しかし、当時において「最新」だった問題の原因を歴史の中で位置づける手法は、問題の背景をとても分かりやすくしてくれる。
9・11の淵源を冷戦期に遡って考察していたり、アラブの春の直前にアラブ諸国でSNSが普及していることを取り上げていたり、中東の様々な側面を知れることは間違いない。
中東情勢がわからない!という人にはまずこれを薦めたい。
ちなみに同じ著者の続編が2018年の1月に出版されている。