大貫大八
という人物をご存知の方はいるだろうか。
尊属殺重罰規定違憲判決
と言えば、公民の授業で習った方は多いだろう。
大貫大八は、この裁判で被告人(つまり父親を殺した娘)の私選弁護人となった弁護士である。
大貫氏の法廷での在り方から弁護士とは何なのか、が見えてくる。
事件の概要
ものすごく簡単に言うと、夫婦同然の生活を何年も父に強いられてきた娘が、父親を殺した事件である。起きたのは1968年。
父の子供まで出産した娘は、ある日恋に落ちる。父に打ち明けたところ、父が激怒し「娘を殺してやる!」と脅され、たまらず父を絞め殺した。
ここで親殺し(尊属殺)の罪なのか通常の殺人罪を適用するのかが裁判で問題となった。
尊属殺が適用されると死刑か無期懲役、一方で通常の殺人罪が適用されれば、死刑か無期懲役、または3年以上の有期懲役が課せられる。
もちろん娘にとっては通常の殺人罪の適用がベターである。
ただ娘の資力では弁護士を雇えない。そこで国選弁護人がつくのだが、一審ごとに変わってしまうため一貫して弁護することができない。
そこで無償で私選弁護を買って出たのが大貫弁護士だったのだ。
当時の社会状況
裁判が始まったのは1968年。戦争を終えて23年経ったとはいえ、戦前から続く道徳観は変わらない。イエ社会だった。
憲法で個人の平等が謳われようとも、親殺しはタブーとされていた。ただ、娘と父親の関係は明らかに異常であった。けれども現行法(当時)では刑が重すぎるのではないか…
そうした異様な状態に対して大貫弁護士は徹底的に抗戦する。
以下は大貫弁護士の上告趣意書の一部抜粋である。
被告人の実父相沢幸雄は被告人が中学生であつて満14才になつて間もない昭和28年3月頃強姦し、爾来無理に不倫な姦淫行為を継続し、被告人としても母リカや親族の者の協力によつて再三、父幸雄の魔手から逃れようとして家出したがその都度見つけ出されて連れ戻され、爾来15年間不倫関係を継続することを余儀なくされ、その間5人の子を生まされた(内2名死亡)のである。本件犯行の直接の動機になつたのは偶々被告人が勤務した印刷工場で知合つた年下の同僚郡司好偉と相思の仲となり結婚の話に進み、被告人としては実父によつてじゆうりんされてあきらめていた結婚が人並にできることを喜び父幸雄の許しを求めたところ、初めは許すような態度をとりながら飲酒をしては被告人に対し「出て行くならお前らが幸せになれないようにしてやる、一生苦しめてやる」とか、「今から相手の家に行つて話をつけてやる、ぶつ殺してやる」などと脅迫し、被告人は涙をのんで断念するの已むなきに至つたが、父幸雄は被告人を軟禁状態にして焼酎を飲んでは淫行を迫り、あるいは脅迫しあるいはばりざんぼうすると言うような地獄絵そのままの数日の生活の中に本件犯行が行われたのである。
親子相姦と言うが如き古代の未開野蛮の時代なら格別、人類が長い歴史的試練を経て確立した近代の文明社会における道徳原理からすれば許すことのできない背徳行為である。刑法第200条の謂う直系尊属とはそのような破廉恥の背徳漢まで予測したものでないことは明らかである。御庁の判例も第一点で述べたとおり親子関係を「人倫の大本、人類普遍の道徳原理」と説明しておるように、正常な普通の親子関係を前提としていることは一点の疑もない。換言すれば、父親が暴力を以つて実子である娘を犯したばかりでなく、爾来15年間も夫婦同様の生活を強いて子の人としての幸福を奪つてしまうような野獣に等しい行為は如何なる角度より観ても「人類普遍の道徳原理」に適合することにはなり得ないのである。
漸く満14才になつたばかりの頃父幸雄に強姦されて以来夫婦の如き生活を強いられ、逃げ出せばどこまでも追いかけて連れ戻されて遂に不倫の15年の生活を余儀なくされたのである。原判決はその15年の生活の中に普通の夫婦に見られるような平穏さがあつた旨を認めているが、それこそ皮相の見解であつて被告人の異常な忍耐強さが表面に表わさなかつただけで、心中では常に父の背徳不倫行為に泣きつつあつたのである。
以上のような事実は被告人が15年間その実父幸雄によつて憲法第18条の禁止する奴隷的拘束を受けて来たことになるのである。
従つて又被告人は憲法の保障する幸福追求の権利すら奪われてしまつたのである。
被告人はこのように奴隷的拘束の下に15年の忍従生活を強いられて来たのであるから愛人ができ普通の結婚ができるとなれば自らの幸福追求のために従来の不倫の奴隷的拘束より脱却せんとすることはむしろ憲法上保障されたところの権利でさえあるのである。
こんな理不尽がまかり通ってはならない、とでも言わんばかりの熱量を感じる。
裁判の結果、尊属殺重罰規定自体が憲法に反するとの判決が出される。
大貫弁護士の弁護の下、勝利を勝ち取ったのだ。
ただ、大貫大八氏は途中でがんのため入院し、後を息子の正一氏が受け継いでいる。
そして1995年に立法措置が取られ、尊属殺人の規定は刑法から姿を消した。
大貫親子が社会を変えたのである。
弁護士とは
私が思うに、弁護士とは義の体現者である。
理不尽な世の中で正義を貫く、そういう義と優の徳目を備えた人物だと思う。
では、義と優とは何か。それは武士道にこう書いてある。
義は、自分の身の処し方を、道理に従い、ためらわず決断する心を言う。(新渡戸稲造著『現代語訳 武士道』山本博文訳 ちくま新書、P37)
正しい道理に従うことが義である。
一方で勇、つまり勇気とは何か。
勇気とは正しいことをすることである。(同P43)
義を見てせざるは勇無きなり。つまり、正しいことをためらわず行うことが弁護士の徳なのだ。
大貫大八氏、そして息子の正一氏の不正を許さない熱意には心を打たれる。
あらためて教師とは
なぜこんなことを書いたのか。
それは教師とは何かを他の職業との比較の中で最近考えているからだ。
ただ書いている中で、自分は論語の徳目の視点から職業を考えていることがわかった。*1
ちなみに新渡戸稲造の書いた『武士道』は朱子学やキリスト教がベースとなっている。そして朱子学は儒教(論語)から派生している。
今後もこうした記事を書いて、教師の徳について考えたい。
参考にした記事を張っておく。