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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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ISが出現したわけ~アメリカの中東政策が招いた怪物-酒井啓子『9・11後の現代史』講談社現代新書②

中東は混沌とした状況にある。今では壊滅状態のIS(イスラーム国)の登場は衝撃的だった。

ここでは『9・11後の現代史』を参考に、ISがなぜ登場したのかまとめたい。

 

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9.11後の現代史 (講談社現代新書)

 

 

IS(イスラーム国)とは?

中東に激震が走った。2014年に勢力を伸ばしたIS(イスラーム国)の出現である。至る所で非イスラーム教徒やシーア派を迫害したり、文化遺産を破壊したりするなど、その残虐性・破壊性に人々は震えた。

ISの特徴は以下のとおりである。

第1に、スンナ派の組織であること。

第2に、従来の武闘派組織と異なり、組織的に行動すること。

第3に、「カリフ制国家」の樹立を宣言し、西欧近代国家と異なる枠組みを提供したこと。

第4に、サイクス・ピコ協定体制の打破」を掲げたこと。

第5に、外国人がISに流入していることである。

 

第1の特徴であるスンナ派組織であるというのは、ISが生まれたきっかけがイラク戦争である点に求められる。2003年のイラク戦争後、かつての政権党を担っていたバアス党が戦争後に解体され、要職についていた人物が公職追放にあったことに由来する。イラク国民のうち、スンナ派が4割、シーア派が6割で構成されているが、バアス党の下では少数派のスンナ派が政権を握ってきた。しかし、戦後はアメリカによって民主化がなされ、当然選挙では多数派であるシーア派が勝利する。社会から疎外されたスンナ派の人々は今の自分の不遇の原因を作ったアメリカと現政権に反旗を翻す。そうしてISなどの武装勢力流入していった。それが、ISがスンナ派たるゆえんである。

第2の特徴はテロ組織にもかかわらず、その組織性が卓越している点だ。イラク国軍に対する集団的な軍事攻撃など軍事面をはじめ、侵略地域での行政機構を抱えこみ、住民を統治する国家経営の面など、幅広い面においてその組織力が発揮されている。かつての政権党であるバアス党の人材を多くリクルートしたことで、その行政能力が担保されていたのかもしれない。

第3の特徴は、イスラーム独自の国家概念を打ち立てたことである。

カリフ制国家とは、イスラーム預言者ムハンマドの後継者である「カリフ」が、その共同体の指導者としてイスラーム社会を統治する国家体制のことであり、現在国際政治の前提となっている西欧起源の国民国家体制とは全く異なるものである。

カリフ制国家の宣言は、西欧の侵略にトラウマを抱える中東の人々の一部を魅了した。その一方で、国際秩序の根幹である国民国家を脅かす存在として、特に西欧の人々には脅威に映った。

第4の特徴も一部の中東の人々にとって魅力的だった。中東の人々の中には、自分たちは第一次世界大戦後に西欧列強によって分断され間接支配されてきた、という怒りを抱え、それがアラブ諸国の抱える最大の足枷だという意識は強い。だからこそ、その原因たるサイクス・ピコ協定の打破は一部の人を動かしたのである。

最後の特徴はISに外国人が流入している点だ。その多くはヨーロッパの移民2世・3世であり、彼らの多くはアラブにルーツを持つ。西欧で差別された移民が西欧を敵視するISに流入して、生まれた地に報復する構造ができているのだ。さらに、ISに流入せずとも、その理念に共感した人々は単独で起こすローンウルフ型のテロ問題となっている。ISがSNSなどを通じてテロを呼びかけたことで、フランスやベルギーなどで多くの犠牲者を出すテロが起きた。

では、そもそもISはなぜ出現したのだろうか?

 

ISの出現

IS出現の土壌はイラク戦争後の混乱にあった。

2003年のイラク戦争後、アメリカによる民主化政策の展開によってシーア派が台頭したことはすでに述べた。それは一方では、公職追放されたバアス党員、さらに言えばスンナ派の党員が社会から疎外され、他方ではシーア派の人々ばかりが政治過程に組み込まれるという不平等な構造をもたらした。

しかも、民主化が制度的に進めども市民生活は全くよくならない。それも当然、アメリカの主眼は住民の福祉ではなく、あくまでも民主制度の導入にあったからだ。

さらにISに対抗するためにシーア派民兵義勇兵として政権が募った。それを隣国イランが軍事指導したことで、否が応でも宗派対立が生じた。つまり、スンナ派から見ればシーア派は「外国の手先なのでは」という不信感が生じたのだ。そもそも旧バアス党員からすれば現政権はシーア派で自分たちを迫害したアメリカの手先であり、敵対関係にある。宗派間対立は不可避であった。

選挙の結果選ばれたマーリキーは当初両宗派の融和政策をとっていた。しかし、マーリキーは国民和解政策をやめ、スンナ派の迫害を図った。イラク国内の政情は不安定化し、国家破綻の様相を呈している。

そして、その不安定さの大元をたどると戦争に行きつく。イラクがここまで荒廃し、ISを生む土壌となった最大の契機はイラク戦争だった。

イラク戦争はなぜ起きたのだろうか?

 

イラク戦争

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2003年、アメリカがイラクに攻撃を行った。イラク戦争の勃発である。しかし、1991年の湾岸戦争を契機にイラクアメリカは敵対した関係にある。

1979年のイラン革命まで中東におけるアメリカの同盟国はイスラエルを除けば、イランだった。しかし、革命後は隣国のイラクが消去法的にアメリカとパートナーに選ばれる。しかし、湾岸戦争ではイラクアメリカを敵にする道を選んだ。ここで、アメリカにとってイラクは自分に刃向かう敵としての存在に変化したのである。

それが先鋭化したのが2001年の9・11後だった。

9・11事件をきっかけに、アメリカがイラクフセイン独裁政権が抱く反米姿勢を問題視し、これを「民主化」しないことにはアメリカは安全ではいられない、と推論したことが決定打となった。しかし、他国の内政にはおいそれと干渉することはできない。そこで建前として用いられたのが、フセイン政権が大量破壊兵器を保持しているということが開戦理由として掲げられた。

というのも、湾岸戦争の停戦合意には「軍備拡張しない」ということが盛り込まれていた。そのため90年代には国連の大量破壊兵器査察が頻繁に行われた。だが、次第に強引になっていく査察にイラク側が拒否したことで、アメリカがこれを問題視した。そして、国連の査察ではなくアメリカ自身が見つけ出すという理由でイラクへの軍事攻撃を主張したのだった。こうしてイラク戦争が引き起こされた。

 

イラク戦争

戦闘はあっという間に終わった。42日間でイラク戦争終結を迎えたのである。だが、開戦理由とされた大量破壊兵器は見つからなかった。

 

イラク戦争開戦から1年半後の2004年9月、パウエル国務長官は探索をあきらめる発言をした。見つからなかったのである。パウエル報告書に使用された証拠の多くがねつ造だったり剽窃だったりしたことが、のちに判明した。(P50より)

 

ちなみに後にイラク戦争を振り返ってこんなことが述べられた。

イギリスのイラク戦争参戦経緯と戦後処理を検証する独立調査委員会(通称チルコット委員会)は、2016年夏に膨大な報告書を発表した。そこではブレア政権が正しくない判断に基づきイラクを武力攻撃し、イラク戦争後の対処も十分ではなかったっことが厳しく糾弾されている。つまり、イラク戦争が理も大儀もない戦争だったということが、開戦から13年を経て、開戦当事国の公的な機関で認められたわけだ。無責任でずさんに行われたイラク戦争によって、イラクは秩序が崩壊し、政治は不安定化し、経済は停滞するという悲惨な運命をたどることになった。

その理不尽さからISは生まれた。(P46より)

 

 

戦闘自体は終わった。しかし、ここからが始まりだった。ずさんな開戦理由だからこそなのかもしれないが、そのずさんな戦後管理は間違いなくISの土壌となった。

ブッシュ大統領は自由と民主主義を広めること、民主主義思想の輸出を掲げていた。当然占領下のイラクでは民主化がすすめられる。しかし、あくまでも民主化に主眼が置かれていたため、市民生活の向上は二の次だった。そのため、住民の福祉はほとんど向上しなかった。

だからか、住民の抵抗活動は戦後すぐに始まった。さらには反米抵抗運動に外国人も流入したのである。その結果、2006年からの2年間、イラクは内戦状態に突入した。

こうした治安の悪化には、反米的要素に加え、政治家の腐敗や汚職に対するアンチテーゼの意味合いもある。イラクの戦後復興を担ったのは、亡命イラク人だった。彼らはイラク戦争中亡命し、戦後祖国に戻ってきたため、現地の支持地盤を持たない。だから、金で現地の人を買収して動員するなど賄賂のイメージから人々の不満を買ったのだ。また、支持基盤がないのだから、宗派アイデンティティに訴えて人々を動員するのが手っ取り早い。だからこそ、国民の多数派であるシーア派に訴えて選挙を勝ち抜こうとしたのだ。これがかつてのエリートであるスンナ派の没落をもたらし、戦後のイラクで宗派対立が醸成される要因となった。まさに国家破綻の状態だったからこそ、ISが出現したのだ。

さて、なぜイラク戦争の原因である9・11が引き起こされたのか?その淵源はアメリカの中東政策にあった。

 

9・11

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9・11の淵源はアメリカの中東政策にある。それはイラン革命がきっかけだった。

冷戦下、アメリカの中東政策の根幹はソ連の侵略から中東の油田地帯を守ることだった。そのためのパートナーがイランだった。しかし、1979年のイラン革命によってイランとは敵対関係になったため、代わって協力相手として浮上したのがイラクだったことは前述した。

同年、アメリカにとって悪夢のような出来事が起こった。ソ連がイランの隣国アフガニスタンに侵攻したのである。しかし、冷戦下において米ソが直接対決することは核戦争への発展の可能性を持つ。だからこそ、アメリカは自らが直接動くことをせず、子分を動員した。すなわち、アフガニスタン周辺の親米勢力を頼りにアフガニスタンで反ソ反共勢力を育てることが政策としてとられたのである。まずサウジアラビアイスラーム教徒を募り、集まったイスラーム義勇兵パキスタンの協力の下で軍事訓練を施され、反共ゲリラ兵士となったのである。その中には、後に9・11の首謀者とされるウサーマ・ビン・ラーディンもいた。

しかし、ソ連アフガニスタンから撤退すると彼らは役割を終える。しかし、彼らは役割を終えても、ソ連という無神論者(共産主義無神論)がイスラームを蹂躙しているとして、世界各地の紛争地域で活躍の場を求めた。そして、彼ら、特にビン・ラーディンが反ソから反米へと変わる転換点が湾岸戦争だった。

ソ連撤退後、ビン・ラーディンは祖国サウジアラビアの変化に気づく。サウジアラビアイスラームの聖地メッカとメディアを抱え、王家はそれら聖地を護る者と自らを位置づけることで体制の正統性を確保してきた。ところが、湾岸戦争に際して、サウジアラビアイラクが自国に侵攻するのでは、と危機感を抱く。そこで、サウジアラビアアメリカに国防をゆだねる決断をし、結果として、米軍がサウジ国内に駐留することとなった。

こうした事態にビン・ラーディンは失望した。

米軍駐留の決定に、聖地を護ることがその存在意義であるはずのサウディ王家が、外国軍に依存するばかりか、異教徒の兵士を国内に招き入れるなど言語道断(P74より)

 

ビン・ラーディンは祖国を批判するが、国籍を追放され、さらには避難先のスーダンからも追い出される。その末にアフガニスタンに拠点を築いたのである。ビン・ラーディンは自らが指導者であるアルカイーダの拠点をアフガニスタンにおき、そして2001年、9・11米同時多発テロ事件を起こすに至ったのである。アメリカはすぐにビン・ラーディンを犯人と特定し、アフガニスタン政府に引き渡しを要求したが、政府が拒否したためにアフガニスタンへの攻撃を開始した。2001年、アフガニスタン戦争である。それに続いて、イラクとの戦争を始めたことも前述のとおりである。

 

9・11事件の後、ブッシュ大統領テロとの戦いを表明し、イラク戦争に踏み切った。ブッシュの背後には自由民主主義の世界的な拡大をアメリカの使命と信じるネオコン新保守主義者)がおり、それはアメリカが中東政策に自ら介入することで実現されると考えられた。

アメリカの直接介入は伝統的な中東政策とは大きく異なる。従来はただ同盟国を作り、間接的に介入するだけだった。では、直接介入はうまくいったのか?

否。直接介入はアメリカに予想外の被害をもたらした。それはアメリカの介入意欲を減退させるのに十分だった。その証左として、オバマは「世界の警察を辞める」として、2011年にはイラクから撤退したし、トランプに至っては自国の利益が最優先とする「アメリカファースト」を掲げて大統領となった。イラクの混乱をもたらし、ISの出現をもたらした要因はアメリカの中東政策に大きな要因があったのだ。

 

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