統一地方選を目の前にしてなんてことを言うんだと思った方もいると思います。
タイトルはショッキングですが、言いたいことは表題とは真逆のことです。
なぜ投票率が下がっているのか、巷で言われていることとは別の視点から考えてみたいと思います。
投票率が下がる3つの要因
結論的に言えば、次の3つが投票率の低下の要因の一部だと考えています。3つ目から遡って説明していきます。
- 価値観の多様化による「利害関係」の複雑化
- 政策争点のわかりづらさ
- 参政権の価値の低下
まずは参政権の価値の低下から。
そもそも参政権は一部の特権階級に限られていました。
市民革命で参政権を得たのは一部の資本家など。
やがて産業化が進み、労働運動が盛り上がっていくと参政権獲得運動に発展していきます。労働者へと政治の門戸が開かれるようになりました。
ただ現在のように多くの国で女性も政治に参加するようになるのは、世界大戦を待たなくてはなりませんでした。イギリスでは第1次世界大戦後に女性参政権が、フランスや日本においては第2次世界大戦後に参政権が付与されます。これは戦争を通じて国家に奉仕したことの対価として付与されたものでした。つまり、国家への奉仕の代わりに国家に口出しをすることが認められたのです。
そうした時代的背景に加えて、参政権を求める命を懸けた人々の行動があったからこそ、我々は権利を獲得していったのです。
しかし、そうした血みどろの歴史は忘却の彼方に消え去り、今となっては一定の年齢に達すれば参政権は自動的に付与されます。別にありがたみも何もありません。
政治に参加する権利が個人にとってさほど価値を持たなくなったのです。
次に政策争点のわかりづらさです。これは価値観の多様化による「利害関係」の複雑化とも関連しています。
マックス・ウェーバーによれば、政治家の役割はビジョンを提示することであり、そのビジョンを具体的な政策に落とし込み、実施するのが官僚の役割です。つまり、政治家には個別具体的な政策を争点とするのではなく、「どんな社会を理想とするか」グランドデザインの提示が求められているのです。
しかし、どんな社会を理想とするか訴える政治家はなかなかいません。
「美しい国」や「自由と繁栄の弧」というけれども、理想の社会像として人口に膾炙しているわけではありません。
また、資本主義や社会主義といった体制選択の余地があるわけでもありません。
この選択肢のなさは戦後の日本社会がたどってきたものでした。冷戦下において、日米安保体制と経済成長という枠組みがあったために人々に体制選択の余地はありませんでした。それは現在でも基本的な枠組みとして残っています。
必然的に、大きな政治的枠組みを争うのではなく、個別具体的な政策が争点になります。
たとえば、消費税を10%に上げるという争点を掲げた時に、それ自体が非常に専門性を必要とする概念です。多くの人々に関連する一方で、知識を必要とするところから、人々は興味関心を失います(興味関心はあるけれども、調べるのがめんどくさいという人もいる)。
調べるのがめんどくさい、わからない、だから投票に行かない。わかりづらさが投票率の低下を助長していると思われます。
また、現在は多様化の時代と言われます。
高度経済成長期のように経済成長という目標に人々の意見が集約できる時代の政治には、日本全土の経済発展が求められました。
戦後の復興の下での貧しさの中で、人々は豊かさを求め、政治にその役割を期待したのです。
池田隼人の所得倍増計画や田中角栄の列島改造論など経済成長というわかりやすい社会のグランドデザインは人々を魅了しました。
しかし、経済成長がある程度達成され、人々は豊かになると、豊かさ以外の別のものを求めるようになります。もっと言えば、物質的な豊かさが充足され、精神的な豊かさを求めるようになります。
また、バブルの崩壊やグローバル化、少子高齢化などで社会構造にも変化が生じます。こうした中で全国民的を巻き込むような政治的争点はあまりなくなっていき、政策のターゲットが細分化されていきます。
たとえば、育児サービスの充実は共働き世代や家庭を持つ人にとって非常に嬉しいことですが、独身の方には直接的な関係はありません。
高齢者福祉は「いつかはみなそうなる」わけですが、若者には短期的には関係がありません。
関係がない、だから投票に行かない。
価値観が多様化したからこそ、政治家は包括的な政策を提示することができません。そうすると個別具体的な政策のリストを提示することになり、「この政策には関係がない」と思うような人が増加してしまうのではないでしょうか。
まとめ
投票率の低下には3つの要因があります。
投票の権利自体が陳腐化し、そもそも投票先の政治自体がわかりづらいし、関係がないものが多い。
ですが、果たしてそれだけなのか。
この記事を書いている中で浮かび上がってきた仮説があります。
それは
何でもかんでも中央政府が指示を出したり、やろうとするから無理があるんじゃないか?
日本全国一律に政策を提示するから有権者を囲えないのであって、地方政治に裁量を委ねていって、地域独自の課題は地域に解決させれば人々の興味関心や当事者性を喚起できるのではないか?
というものです。
もちろん検討の余地があると思います。
ですが第4次産業革命という経済的な大きな変革の時代において、政治もまた変化を求められているのではないか、と思った次第です。
とにもかくにも、教師に求められるのはわかりにくさの解消と関係がないと思ってしまう態度の是正にあるのかなと思いました。
とりわけ公民科においては、政策を目の前にして是非を判断する能力の涵養が必要と感じました。その点で正確な知識の理解は避けて通れませんね。
参政権の大事さは概念的に伝えても実感が伴わなければいけませんし、なかなか難しいのかなと思いました。それでも伝え続けることが教育の役割だと信じますが。
それでは。