為政者に求めること
今は大きな社会的変化の渦中にある。明治維新から150年が過ぎ、その当時のシステムが変わらざるを得なくなっている。学校というシステムもその一つだ。
ここで政策決定者に求めたいことがある。
それは、多様な視点を吸い上げることである。
具体的には政府の政策委員には多様な背景を持つ人を呼んでほしい、ということである。
たとえば、中央教育審議会のメンバーを参考にしたい。
リストを見ると、専門家が呼ばれていることがわかる。
ただ、ここで街の人たちの声はどうやって吸い上げられるのだろうか。
主婦や学生、管理職以外の先生、組織の末端の構成員、若者などなど…
大学教授や学術会議のトップなどはどうしたって同じようなバックグラウンドを有する。すべてを調べているわけではないが、多様な視点はあれども、その限界はあるだろう。
こうして議論していても当事者は蚊帳の外なのだから。
別に権力が腐敗するというわけではないけれども、強者ばかりの発想では窮屈にはならないだろうか。
現実には難しいけれども
何故こんなことを言ったかと言えば、現在の国会と選挙制度では「多様な声」を吸い上げることは不可能だからである。
というのは、衆議院でも参議院でも選挙区選挙が行われており、特に衆議院の小選挙区制の下では絶対に多様な声を反映することはできないから。小選挙区制では死票、つまり無駄になってしまう票が多くなる。時には当選者の獲得票数を死票が超える場合さえある※。
同時に国会は政策立案ではなく、官僚の政策の後追いの場である。
近年においては議員提出法案と成立率も上昇しているが、それでもやはり内閣提出法案の提出数と成立率は圧倒的である。
そして、内閣提出法案は官僚が作成し、与党が合意したものである。提出される段階で、修正の余地はほとんどなく、与党議員も人事権を党総裁に握られているので、ほとんど反対することはない。
したがって、現状の選挙制度においては与党支持者以外の声を反映することは極めて難しい。
だからと言って、前述のように政策会合に当事者を交えるのは極めて非合理的である。
というのは物理的制約に加えて、インセンティブのない会合に素人が参加する意欲は通常持たないからである。
これからの社会でできること
提案として、ビッグデータの活用というのを一つあげたい。
政治家の機能は政策決定と民意の集約である。
だが、前者はともかく後者は非常に難しい。
そもそも主権者の意思を代理するという絶対に実現しないフィクションが市民革命以降運用されてきた。
フィクションが長い間運用されてきたことで、伝統となり、我々にとって「当たり前」となっているだけであって、技術的に可能であるならば、政治家に代替できないだろうか。
これこそ究極の民意の反映ではないだろうか。
インターネットさえ使えれば、今まで表舞台に出てこなかった要求も出てくるかもしれない。
政治家をなくさずとも、立法過程でこのような技術を活用できはしないだろうか。
不満の大本は
結局は自分の声を聴いてもらえない、反映されない、そういうところに主権者としての無力感を感じるのである。
国民主権だってフィクションであるが、そもそもそのフィクションを根拠にして、政治家は政治をやっているわけである。なんだかなあ、という腑に落ちない思いがずっとある。
という7月終わりの妄想をお送りしました。
※すべて比例代表制にすれば解決するという簡単な問題でもありません。
ヨーロッパの小国などを参考にすると、かなり長い間努力して連立政権がうまくいった経緯があったりしますから。