教師という職業柄、観察という営みからは逃れられない。
その時、その観察の成否を決めるのは言葉の多さかなと思う。
たとえば、旅行に行って森林を見た時、「きれい…」と一言だけでは観察も何もない。もちろん友達と会話するのであればこんな一言でも盛り上がる。しかし、口に出さずとも観察眼を鍛えるためには「樹齢200年は超えているであろう4メートルほどの杉の大木が道の端にずっーと並んでいて、木々の間から差し込む陽光が荘厳な雰囲気を醸し出している」とか、具体的に感じたこと、見たことを表現したい。
その時、どれほど表現できる言葉を持っているのかがとても大事になってくる。表現できないことは認識できていないことである。我々の認識は言語を介して行われる。
だから、わからない言葉があれば辞書を引いたり、読書をたくさんして言葉を増やしていくしかない。そうして、やっとその先に見えてくる世界がある。
そして観察眼を鍛えるには場数を踏むしかない。
速く走りたい、といってイメージトレーニングや走るフォームを座学で学んでいてもしょうがない。実際に走らなければ早くはならない。同じように日常的に観察をして表現を繰り返さなければ観察眼は鍛えられない。
生徒の様子から彼らの心情や考え、関係性、性格などを読み取るには毎日毎日の観察の繰り返しが必要だろう。
観察をしつつ、同時に言葉を増やしていけば、分析・観察はきめ細かなものとなっていく。
夏休みは読書をしたい、と思いつつ、まだまだできていない。ああ、頑張ります。