ジョーカーを見てきました。
多分に現代社会の病理をえぐった作品だという印象が一つ、単純に次の展開が気になるような作品としての完成度が高いという印象が一つ。
ここからはネタバレを含むので、見たくない人はスルーしてください。
ジョーカーざっくりストーリー
舞台はゴッサムシティ。貧困層と富裕層の格差がとんでもなく広がっている街である。
主人公のアーサーはコメディアンを目指す壮年の男性。
母親と二人で暮らしており、ピエロの職で生活をつないでいる。
脳と神経の損傷のため、突発的に笑ってしまう障害を抱えており、生活も非常に困窮している。
ある日、彼は同僚から銃を渡される。そして、それを護身用に身につけていた。
しかし、彼は小児病棟での仕事中にそれを落としてしまう。それをきっかけに仕事をクビになり、落ち込みながら帰路についていたところ、酒に酔った証券マンに絡まれる。
激高したアーサーは証券マンに銃を向け、殺害してしまう。
しかし、その行為は貧困にあえぐ人たちにとって、英雄的行為だった。アーサーは殺害時、ピエロの格好をしていた。
結果として、ピエロは貧困層のヒーローとして神格化され、富裕層に対するデモ、暴動が起こっていく。
社会的な動きに対して、アーサー自身にも変化が生じる。
ある日、自分の母親が精神病を抱えており、自分が養子であることを知る。そして、幼少期に虐待したことで脳に損傷を抱えたことを知る。つまり、自分の障害が母親による後天的なものである、と知ることになった。
アーサーは母親を手にかける。
自分の「不遇で、惨めな」生涯を「悲劇」ではなく、彼はこう表現する。
「喜劇」だと。
そうして、妄想にとりつかれた彼は自分に敵意を向けた人間を殺すことに躊躇がなくなっていく。
現代社会に通じるリアルさ
この映画から感じたのは、きわめて現代的なテーマだった。
貧困、格差、分断、虐待、、、
どれも貧困から派生する問題である。
たとえば、アーサーの母親はシングルマザーだが、過去に精神病で入院しており、その際にアーサーに対する虐待が問題になっている。
そして、アーサーはその時の虐待が原因で精神的な障害を抱えるようになった。
貧困と虐待に因果関係があるわけではないが、たった一人で育児をするつらさ、生活を工面する不安からストレスのはけ口を虐待に求めることは往々にしてある。それが家庭における教育の差を生み、貧困の再生産を生み出すこともある。
また、アーサーが証券マンを殺人したことが、むしろゴッサムシティでは賞賛をもたらしたのも、きわめて大きな格差があるからだ。
おそらく舞台のモデルはニューヨークである。
アメリカの格差は世界で最も激しく、それゆえ富裕層と貧困層の分断はすさまじい。
たとえばリーマンショックの後、「我々は99%」というスローガンを掲げたデモが出てきた。それはすなわち、「残りの1%」は「我々ではない」という意味であり、デモで倒すべき存在という意味である。
映画の中でデモ集団が、車を燃やすなどの暴動に発展するシーンがあったが、これはパリで起きている「黄色いベスト運動」と瓜二つである。
とするならば、人々が貧困で不満を抱えている状況下では、あることをきっかけにそれが噴出するのだろう(映画内では、アーサーが証券マンを殺害して、シンボライズ化され始めたのがきっかけ)。
社会の分断がもたらすもの
我々は社会という一つの集団を築いている。
しかし、あまりにもひどい格差は分断をもたらし、「私たち」と「あいつら」という分断意識を生み出してしまう。人間は仲間意識のない者、さらにいえば敵には容赦ない。異教徒に対する十字軍の情けのなさしかり、白人至上主義者による有色人種への容赦のない差別しかり、である。
暴動が起きていたときに、金持ちに銃を向ける者がいた。自分たちの不遇は金持ちのせいだ、という意識が貧困層に広まれば、そうした社会的不安定が生じるだろう。
加えて、貧困層での虐待などが精神的な病をもたらせば、被害妄想などで犯行に及ぶ人も増加するかもしれない。
であれば、ある程度の富の分配によって所得をできるだけ平準化する方が社会的安定性を保つ上でも、富裕層にとってのリスクを軽減する意味でも、効果的なのだろう。
新自由主義的政策が米英日でとられ、日本がますます市場原理を重視する小さな政府へとシフトする中で、格差は拡大しつつある。国家像・社会像をどうしていくのか、社会的な合意をはかるべきだなあと思った。
あと、ジョーカー普通に面白かったんでおすすめです。