20日の読売新聞で面白い記事があった。
安楽死や尊厳死など、死に方をも含めた人生の問題は世界中で議論されている。
より良き生を全うし、その終着点をどう迎えるかは当事者にとっては重要な問題であるが、死ぬ権利を認めれば、社会秩序を支える人権概念の変容は避けられない。だから、各国政府も慎重に対応している。
ある女性の決断
この記事を読んで思い出したのは、日本人女性が安楽死のためスイスへと向かった、という記事だ。
苦しみだらけの人生を生きる意味は何か。
その終わりを決する権限をどうして当事者が持ちえないのか。
近代社会に生まれた生命への権利に対する疑義が突き付けられているわけであるが、未だその壁は強固である。
誰だって自分の人生の主役は自分でいたいものであるが、自分で決められることにはそもそも限界があるみたいだ。
死ぬ権利を認めたら
では、仮に死ぬ権利が認められたとすれば、どうなるだろうか。
ある人物はこんなことを言っている。
正直なところ、私もおおむね同意する。
私自身も人権を享受し行使する主体として十分とは言えないと思うが、できる限り自分の人生は自分で決めてきたという自負がある。そうした自己決定、自由権に対する各自の尊重がある社会風土の下でならば、安楽死は認めてもいいのだろう。
でも、現実は厳しい。
少なくとも、人権主体を育てる教師のなかに、同僚に対する凄惨ないじめに加担したり、顧問として部員を恫喝し、暴力をふるい、中には自殺に追い込む者もいるのだから、「社会全体の風土形成」という点で実現は不可能である。人権を教える場から絶対王政が生まれてしまうのだから。
ただし、そんなことを言っていてはいつまでたっても実現されないので、私にできることは授業で生徒たちと議論することである。
もちろん個人にできることには限界があるので、制度的な方向で物事を進めていくことも大切ではあるけれども。やはり理想は社会的な合意形成がなされて制度が形作られることである。
まずは社会全体で議論を
本格的な超超高齢社会を迎え、死の問題は当事者だけでなく、社会全体が直面する問題に変わりつつある。
死ぬ権利を認める・認めないという法的な次元からでなくても、議論自体を始めないといけないフェーズに来ている。
う~む、考えたらず。このあたりの問題、生徒と議論していきたい。
▼「死とは何か」というテーマで哲学対話の授業をしたときの記録です。