「先生、これってテストに出ますか?」
教師なら誰だって一度は受けるであろう質問である。
私自身もそうであるが、多くの高校教員は大学受験というものを少なからず意識して授業を行っていると思う
受験という目標に沿って授業展開をするので、きわめて合理的に授業が行われる。ただ、知識の伝達と得点力の向上点においてではあるけれども。
ただし、私は受験合理性に基づいた授業を否定するつもりはないし、現に私自身も高3生にはそうした授業を展開している。
この立場は教育を受験という目標実現の手段として捉える点で、受験合理性に立脚した道具主義的な立場である。それはある面では非常に効率的であるが、教員も生徒も「テストに出るかどうか」が主要な関心事項になり、またテストに出ない(と考えられた)ものは学習対象から外れてしまう。
だからこそ教育の在り方を変えようという流れの中で、入試制度改革が学習指導要領改訂とセットで実施されたのであろう。それほど現場の教員にとってはテストの改革は日常の授業を変え得る強制力となりうる。
ただ、それでも教育が受験のための道具である立場は変わらない。
確かに教育は何らかの目的を実現する手段ではあるが、受験合理性が一番大事な目標になるんではなくて、市民性の育成などを目標として据えることも大切だと思うのだ。
教育はどこまでいっても道具主義的であって、教師は何のための道具なのかをしっかり認識したうえで教育活動に当たるべきであろう。でないと、そこから脱却することはできない。自戒の念を込めて。
それでは。