どうもこんにちは、しらすです。今日はハーバーマスという哲学者の紹介です。
【ハーバーマス】1929年生まれ・ドイツ出身
◆ドイツを中心に活躍する哲学者。御年90歳だが、精力的にメディアで発信するなど勢いは衰えない。
◆戦前はヒトラーユーゲントに参加。一方で、戦後はアメリカ占領に伴う民主主義教育を受けた世代。それらが彼の哲学に影響を及ぼしている。
◆哲学的な立場はフランクフルト学派第二世代に属する。
◆公共圏論、対話的理性、コミュニケーション的行為などを提唱し、哲学や政治学、社会学の進歩に与えた影響は計り知れない。
いきなりだが、理性、というとどういうイメージを持つだろうか。
知的、洗練、賢い、合理的…。
おそらく悪いイメージはなく、何か価値のある良い言葉として受け止めている人が多いだろう。
それもそのはずで、まさしく理性が近代社会を発展させてきたからだ。
理性には成果を志向する、目的を達成するという意味合いがある。こうした理性を「道具的理性」と呼ぶ。
産業革命以降、大量生産を如何に効率よくするか、という点で人類は腐心してきた。機械化が進み、フォーディズムが登場し、様々な改良がおこなわれ、産業の生産性は飛躍的に上昇した。工場では分業が進み、労働者は目的に沿って合理的に動く。
こうした工場の合理的な在り方は官僚組織や学校など社会のあらゆるところに波及していった。組織が機能的に分化し、そして組織内においても役割分担がなされる。こうして目的を達成するという点で極めて合理的な組織がつくられていく。
こうして分業が進み、(先進国の)社会は豊かになった。けれども、同時に目的に対する価値判断はなされず、ただただ目的を効率的・合理的に達成することが重視されるようになった。
こういう視点で見れば、ナチスドイツの官僚は優秀だった。ヒトラーの非人道的なユダヤ人虐殺も、理性を効率よく活用した結果に過ぎない。官僚はヒトラーの意に従って、合理的・効率的に仕事をこなしただけだった。ただ、彼らの欠点は、その仕事の目的に対する価値判断がなかっただけなのである。
過度に理性を信奉した末路は悲惨だった。凡庸な悪はこうして生まれる。
だから、過度な理性信奉は危険だと、戦後の社会では批判されるようになった。その急先鋒がドイツのフランクフルト学派だった。ただ、その学派の中でも、それに異を唱えた人がいた。それがハーバーマスである。
ハーバーマス曰く、理性には「目的を達成する」だけの側面ではなく、「価値判断を伴う」側面もあるという。後者の理性を「対話的理性」と呼んだ。
対話的理性とは、何が正しいかは自明ではないんだから、みんなでルールなどを決めよう、ということであって、合意を形成する能力のことである。特にグローバル化が進んで、色々な価値観や意見、出自を持つ人が同じ社会でごった返しているような状況かでは何が正しいかなんて誰にも分らない。だから、正しさをみんなで決めよう、という非常に現実的な哲学を提唱したのである。
どうして対話的理性などとハーバーマスは言い出したのか。
当時、ナチスドイツの反省から「理性のせいでひどい目にあった!」「理性はダメだ」という批判があった。それもハーバーマスの身内のフランクフルト学派を中心にして批判が巻き起こったのだ。
でも、彼に夢があった。近代という時代は、全ての人が理性を持つようになる「啓蒙」の時代であって、それを達成しなければならない。けれども、まだその目標は達成できていない。だからこそ、近代という未完のプロジェクトを完成させるためにも理性の可能性を我々は信じなければならないのだ、と。
しかも、前述の「理性批判」というのも、あくまでも目的を達成するという意味での「道具的理性」に対する批判だった。だから、ハーバーマスは何とかして理性の可能性を信じなければならない、近代というプロジェクトを完成させなければならないという信念から、「対話的理性」という新たな理性の地平を拓いたのである。
対話的理性という概念は多くの研究を発展させた。こうした研究成果は多くの研究者の論争の中で生み出されていったというところも、彼の生きざまが自身の哲学を体現していると言えるところである。
何かを道具的に用いる力も大切だ。
けれど、それが正しいかみんなで話し合う、そんな力も大事なのである。
ハーバーマスは、今もドイツでメディアを通じて発信を続けている。あらゆる人への啓蒙を通じて、近代の夢を追い求めているのだ。