こんにちは、しらすです。
コロナ禍で自分と向き合う時間が増え、自分が本当に何をしたいのか、どんな人生を歩みたいのかを真剣に検討する人が増えたと言います。
今まで、世間体や見栄、社会常識などは時にその人の気持ちを抑え込んでしまいます。
そんな方こそ、自分の気持ちをありのままに肯定してくれる本居宣長の思想が参考になるかと思います。
本居宣長とは?
本居宣長(もとおり のりなが:1730-1801年)は江戸時代に活躍した国学者です。
国学というのは、ざっくり言えば日本古来の思想を追究しようという学問のこと。
本居宣長の思想~真心~
本居宣長が活躍した江戸時代、ある思想が一大ムーブメントを巻き起こしていました。
事の発端は江戸幕府ができたころ、徳川家康が国を治めるために朱子学を取り入れたことに始まります。
朱子学は上下関係を非常に重視します。そこから、礼儀や身分秩序、またそれに付随する道徳観念が生まれてきます。
当然、善悪の判断も上下関係などを基準に行われるようになります。
そうした朱子学と、飛鳥時代から日本に入ってきていた仏教の善悪の基準が相まって、日本社会の道徳観念が形成されていきました。
朱子学の考え方に「分をわきまえる」と「慎みを持つ」というものがあります。前者は身分制を正当化し、後者は庶民が貧しいことを正当化しました(逆にお金儲けに専念するということで商人は卑しいものとされました)。
朱子学は禁欲的すぎる!
もっと人の気持ちを、欲望を素直に肯定すべきだ!
著作の『玉勝間』でこんなことを述べています。
おいしいものはおいしい、恋しいものは恋しい、つらいことはつらい、その自然な心が真心であり、その本心に素直にそって生きていけという教えである。もちろん世の中を渡っていくには、我慢をし、耐え忍び、お世辞もいい、いつも自分に素直にばかりには行かない。それを承知の上で、なお自分を歪めず、屈折せず、偏屈にならず、自分の自然な心を活かしていく工夫が大事である。不自然な歪んだ生き方は、どこかで無理が生じる。無理な生き方は、どこかで行きづまる。世の中には無数の生き方がある。様々な生きる場所がある。そこから自分を自然に活かせる道を探し出そう。
生まれながらの真心というものこそ、人の道なのである。|記事|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)
宣長は、仏教や朱子学の考え方は人為的なものであり、自分の素直な気持ちを歪めてしまうと批判しました。
そこで宣長が重視したのが真心(まごころ)です。
これは、生まれつき持っている心のこと。あくまでも本人の心がどう感じているのか、本心に従っているのか、そういった素直な心に従う有様を言っています。
現代社会では多様性が重視されています。
多様な価値観がある一方で、その価値観を教条的に盲進してしまうことも時にはあるでしょう。
そうした価値観に従うことが本当に心から望んでいることなのか、真心がなんなのかを考えることで自分を相対し出来るかもしれません。
怒りたいときには怒る、悲しいときには悲しむ、そうした心の動きに素直に従おうということですね。
真心を大事にするということ
宣長のいう「真心(まごころ)」とは、生まれついたままの心のことですから、上辺(うわべ)を取り繕(つくろ)うことはもとより、狡知・姦計、悪事でさえも、それが生まれながら備え持っている心に基づき、全身全霊、必死になって行おうとしているならば、誠(まこと)であり、真心(まごころ)に基づくふるまいとなるのです。
ですから、ここで宣長が問題にしているのは、世間の人が、仏教や儒教などの特定の教えを盲信して、それらの教義(イデオロギー)に自らの生まれついた心を明け渡してしまい、何事も教義・ドグマのままに判断し、モノに触れて動く生まれついた心さえ、型にはめて押し殺してしまうことなのですね。もはやそれは、「人とあらむものの心にあらず」ということなのです。
これは何も宗教の教義に限った話ではなくて、世間の常識や社会に根付いている固定観念も、当然含みます。
本居宣長は商人や医師など様々な経歴を歩んだ末に、国学の研究に打ち込みます。
医師の傍ら研究を続けること35年、全44巻の『古事記伝』が完成します。
自分の好きなものをとことん追求し、貫き通すという彼の生き方は、まさに真心を体現したものといえるかと思います。
生活の糧を得る、というのも大事ですが、自分の心に従う、ということも非常に大事です。宣長の思想はそれを考えるヒントになるかもしれません。
今回の記事が皆さんのお役に立てれば幸いです。
それでは!
▼参考
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