こんにちは、しらすです。
最初は僕らは何者でもありません(nobody)。
でも、人生のどこかで、何者かになっていく。
サルトルは「自分の人生は自分で決めるのだ」と力強く言った哲学者です。
サルトルって誰?
本名は、ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)。
世界的に活躍した、フランスの哲学者・小説家です。奥さんは「ジェンダー」論の先駆け、ボーヴォワール(ただし事実婚です)。
サルトルは、実存主義という主体性をテーマにした哲学を唱え、その生き方も自身の哲学に基づいたものでした。
彼は自分の意志に基づいてノーベル賞の受賞を拒否しています。
実存は本質に先立つ
サルトルの根本的な考えは、実存は本質に先立つ、というものです。
実存というのは、今自分がここにいる状態のことです。
本質とは社会における役割や状態のことです。
サルトルはペーパーナイフを例としてこの言葉を説明しています。
たとえば、ペーパーナイフはモノを切るという役割(本質)がまずあって、そのために制作されます(実存)。
このようにペーパーナイフをはじめとしたモノは、はじめに本質があって、実存が決まります。つまり、本質は実存に先立つわけです。
しかし、人の場合は事情が異なります。
当たり前ですが、人間って初めから役割が決められているわけではないですよね。たとえば、農家の子どもであろうが、将来はミュージシャンになるかもしれない。官僚の子どもだろうが、将来は医師になるかもしれない。
なにか決められた役割があって、そのために人間は生きているわけではないんですね。
まず生まれて、そこから生きる意味・未来を自分で選び取るんです。
僕らは目的を持って生まれてくるわけではないんです。
生まれてみたものの、レールが決まっているわけではない。
やろうと思えば、何にでもなれる。自分がなりたいもの、やりたいことを選ぶことができる。未来を自分で作ることができる。
「実存は本質に先立つ」という言葉は、人間はまず生まれて、その後に本質を選ぶという意味を表わします。
どう生きるか、何を目的に生きるかの選択肢はあなた自身にある。
自分自身はこう生きていくんだと決断し、その道を進んでいくことをサルトルは投企と言いました。
理想の状態を企み、そこに自分を投げ入れて突き進んでいくということですね。
▼「アンパンマンのマーチ」にはサルトルの哲学のエッセンスがちりばめられています。
即自存在から対自存在へ
人は気づいたら世界に生まれています。実存ありきです。
そして、徐々に成長していく過程で自分の役割や理想を思い描き、それを実現しようと進んでいくわけです。つまり、本質の実現へと向かっていくんだと。
その変化の過程について、サルトルは即自存在と対自存在という言葉を使い分けて説明しています。
まず即自存在とは何か。
自己充足的に存在し,自身のうちにいかなる否定も含まないようなもののあり方
おぉ…(わかんない…)
物は初めから本質としてただ存在しています。
たとえば、コップは「液体を入れる」という本質があり、そうした本質を実現する形で実存しています。
本質と実存は常に一致しており、ここに不一致が起こることはありません。
ウサギのような動物も「私はウサギなのか…?」と不安になって、自分の本質を疑うこともありません。
こうした本質と実存が初めから一致している存在を即自存在と言います。
しかし、人の場合は即自存在から対自存在へと変化していくとサルトルは言います。
では、対自存在とは何か。
自己に対して自覚的であるという意味で、人間の意識の自覚的なあり方
なるほど…即自と比べるとわかりやすいですね。
人はまず実存ありきです。
しかし、コップやウサギのように本質と実存が一致しているわけではありません。
そもそも本質=「自分がどういう存在なのか」は他者との関係性で段々とわかってくる物です。
たとえば、赤ちゃんはあまり自分と他人の区別をしません。
しかし、物心つくような年齢になれば、学校で友達と自分の違いを自覚して、自分の長所に気づいたり、短所に苦しんだりします。
やがて「自分はこうなりたいんだ」とか「自分はこうした活動をしたいんだ」という社会参加や自己実現の欲求が芽生えてきます。
こうして、自分はあの人とは違うんだ、という自意識が確立してきます。
このように人間は、常に自分自身を意識しながら、「私という本質」を作り上げていく存在です。
対自存在というのは、自分と対峙して向き合いながら、自分を作り上げていく存在という意味なのですね。
サルトルは過去の自分に縛られず、理想の自分を描き、そこに向かうことが人間の在り方だと説きました。
そのためには、自分が何者かをメタ認知し、他者との比較や自問自答で考えていく必要がありそうですね。
人間は自由の刑に処せられている
人には無限の可能性がある、といったサルトルですが、同時にそれは大変困難な道でもあるといっています。
人間は自由の刑に処せられている
というサルトルの言葉は、その苦難を表わしています。
繰り返しになりますが、人間は本質がない状態で生まれています。
だからこそ、自分が何者なのか本質を作っていきながら生きていく必要があります。
しかし、その決断一つ一つはとても重いものです。
自分が選んだ行為によって、自分の本質が決まっていく、そしてその行為の責任は全面的に自分が負わなければならない。
たとえば、高校でこの大学に行きたい!という思いを持ったとして、周囲の人がそれに反対したとしましょう。
親は学費を出してくれない、といって反対するかもしれません。
それでも、その進路を選び、その先に見据える夢に向かって努力する、という生き方を選んだ場合、学費は自分で払うことになります。自由の代償は大きい…。
そもそもこうしたい、ああしたい、ということを考えるのは結構大変です。しかも、理想の自己実現を達成しようとしても、それがベストかどうかなんてわかりません。
でも、人間は本質が最初から決まっていないがために、本質作りのプロセスを経なければならない。
それをサルトルは自由の刑と表現したわけです。
自由はいいことばっかりじゃないんだ、ということですね。
人生は自分で切り開く
初めは、僕らは何者でもありません。
だから、自由に自分をデザインすることが出来ます。
確かに自由は重荷です。自分で決めたことですから、誰も責任を取ってはくれません。
でも、自分の決断の責任は自分で負う、これこそが真の自由だと思うのです。
たとえば、学校で進路について先生は真剣に考えてくれます。時には決断してくれることもあります。
でも、真剣に考えようが、その結果の責任は先生が引き受けてくれるわけではありません。
決断したのは他人にもかかわらず、その責任は自分が負わなくてはならないのです。
こんなのは自由な生き方ではありません。
だから、まずは自分がどうなりたいのか、自分のやりたいことや自分のやりたくないことをノートに書き出し、自己の価値観を見つめ直しましょう。
自分の生き方を常に選択しましょう。
人生は選択の積み重ねです。
そして、その責任は自分で引き受けましょう。
勇気を持って一歩踏み出せば、未来は大きく変わります。
そういうことをサルトルは言っているんじゃないかと思います。
ちなみにサルトル自身は、一人一人の行動が社会を作り上げると主張しました。
たとえば、結婚制度に基づいて結婚をするのは、現状の制度に肯定の意思表示をすることであり、その制度を再生産することに貢献してします。
サルトル自身は、そうした思いからボーヴォワールとは内縁の関係しかもちませんでした。
また、ノーベル賞受賞の知らせを受けて、その受賞を拒否します。彼は共産主義に賛意を示しており、ノーベル賞は西側資本主義体制の文化を擁護するものと考えました。
そうした考えから、史上唯一、自分の意志でノーベル賞を拒否した人物とされています。
また、彼の「一人ひとりの行動が社会を作り上げる」という思想は、社会参加へと繋がっていきます。この考え方をアンガージュマンといいます(英語のengagementのフランス語読み)
社会参加は社会に拘束されることですが、同時に社会を変えていく営みでもあります。
サルトルの呼びかけにより、若者を中心に政治参加の熱狂を生み出しました。
日本でも安保闘争やベトナム反戦運動が起きたのは、ちょうどサルトルが活躍した時期のことでした。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
サルトルは20世紀後半に大きなブームとなった哲学者です。
ただ、その後構造主義という哲学が出てきてサルトルの人気は衰えますが、それでも彼の哲学は今もメッセージを発し続けていると思います。
何者かになれるかどうかは自分次第だ、と。
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▼余談
学校教師としての余談です。
生徒が即自存在から対自存在へと変わる手助けは学校で出来ると考えています。
自分の人生経験などと照らし合わせながら、哲学者の考えを読み解いて人生観を形成したり、社会状況を踏まえて将来の自己の理想のあり方を思い描いたり、僕の専門である公民科でやっていきたいなあと考えています。
(でも、あくまでも手助けです。将来やりたいことなんていう超プライベートなことをクラスメイトと話し合ってもらう必要なんかなくて、あくまでもその見つけ方とかを教えられたらなあと思っています。)
▼サルトルの本は難しいので、オススメの入門書を貼っておきます。
▼stand.fmでも同じ内容を発信しています。耳から理解したいという方はこちらもご視聴ください。
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