Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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日本再発見

明治維新を経て西洋的価値観が一気に日本に流入した。民主主義("democracy")もそのうちの一つであった。民衆による統治という民主主義の概念は、天皇による統治を国体とする日本の歴史とは対極に位置しているように見える。しかし、民主主義と親和性を持つ価値観は日本の歴史の中からいくつも見出すことができる。

 

その一つが聖徳太子の十七条の憲法である。その一条には「和を以て貴しとなす」とある。ここでは、おたがいに仲良く、調和することが大事だと説いている。その際に、不満があればお互いに言い合い、理解しあうことが大事だとしている。つまり、話し合いを通じて合意形成を図るという民主主義的価値観を1400年以上前の日本の為政者は有していたのだ。

 

また「和歌の前の平等」という言葉がある。渡部昇一上智大名誉教授によれば、「歌を詠む場というのは身分がない」というのだ。例えば、『万葉集』には防人歌など東国の人々の歌が多く掲載されている。ここから、良い歌であれば身分を問わず、平等に取り扱う理念があったことが読み取れる。これは、句会などが身分や階級にこだわらずに行われたことからも、伝統として生き続けていることがわかる。民主主義における重要な価値観である「法の下の平等」が実現するのは日本国憲法を待たなければならなかった。しかし、「芸術の下の平等」は奈良時代から連綿と受け継がれていたのである。

 

このように、日本には民主主義と親和性を持つ価値観が古来より受け継がれてきた。明治時代になって西洋から完全に輸入したのではなく、実は自前の「民主主義」を持っていた。ステレオタイプで歴史を見るのではなく、いつもと異なる視点から眺めることで新たな日本の姿が現れたのである。

 

 

 

 

政治参加の意義

 

 

ルソーの指摘

フランス革命に大きく影響を与えたルソーは次のような言葉を残している。

イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。 自由なのは、議会の議員を選挙する間であり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷 であり、無に等しいものになる」。(ルソー(2008年)『社会契約論』中山元訳、光文 社、192頁)

ここでルソーは、選挙期間以外において人民は奴隷であると論じている。そもそも選挙とは代表者を選出することであり、代表者とは人民、すなわち主権者の代わりに政治を行う者を指す。代表者の権力基盤の正統性は人民によって選ばれたことであり、その政治には選んだ人民の意向が反映されなければならない。しかし、代表者は往々にして民意に反する政治を行うことがある。

例えば、経団連など利益団体の便宜を図る利益政治が行われたり、官僚による政策決定への裁量権が増大したりする場合である。こうした問題は利益集団自由主義(ロウィ)や行政国家の肥大化によって生じる問題であり、民意ではなく利益集団や官僚の意向が政治に反映されているのである。

伝統的な政治参加

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だからこそ、丸山眞男が言うように代表に対して常に監視し、抑制することが必要なのである。監視・抑制によって権力者の行動は制限される。そのための方法が政治参加である。例えば、現行の制度下では、議員へのロビイング活動、地方自治体への請願、住民投票、デモや集会などが認められている。こうした活動によって代表者に絶えず揺さぶりをかけ、代表者に「自分が監視されている」という意識を持たせることで、代表者は民意に沿った政治を行うようになる。かつての公民権運動のような奴隷解放運動を行うことではじめて、奴隷は奴隷でなくなる契機を得られるのだ。

 

試作段階の政治参加

こうした制度上認められた政治参加に加えて、制度としては試行段階の手法もある。ハーバーマスやディーネルらの唱える討議デモクラシーだ。これは、市民自らが政策決定や法の制定過程へ参加する試みである。ここでは、市民は政策の立案ではなく問題の発見などに役割を限定される。というのも、政策の立案は代表者や官僚が行うことであり、重要なことは政策の前提としての問題を市民が十分に討議することで、代表者たちはその問題に対する政策決定や法の制定をする上で正統性を得られるという点である。この過程で市民は学習し、民主主義の担い手として成長していく。したがって、討議デモクラシーは人民を奴隷から貴族へと知的に洗練させる方法でもあるのだ。

現状認められている手法は過去の試行錯誤の積み重ねの上にある。社会が変化すれば、妥当な参加方法も変化するだろう。討議デモクラシーも試行段階とはいえ、今後の政治参加の在り方を大きく変えるかもしれない。ただし忘れてはならないことは、民主主義を不断に民主化していく、という目的のための手段である、ということだ。それを忘れてしまえば、手段の目的化となってしまう。

柳田国男の教育論を現代風に解釈してみた

 

 

民俗学者柳田国男は、戦後に新設された社会科の目標を「一人前の選挙民をつくること」とした(西内裕一「『柳田社会科』の目標と内容についての考察」)。

一人前の定義

ここでいう一人前とは、手紙が書ける程度の平凡な能力、そして新聞が読め、世間の動向を把握できることのできる人間である。その中でも柳田が特に重視したのは、新聞を批判的に読むことのできる能力である。したがって、社会科の目標の一つは、当然新聞に書いてある事象を批判する価値尺度を内在化した人間を作ることが目標となる。柳田はこうした能力を義務教育終了までに身につけさせるべきだと考えた。

 新聞を読むことの現代的意味合い

上記のうちの新聞を批判的に読むということを、現代的に解釈すれば、新聞だけでなく、テレビのニュースやインターネット上のニュースサイトも含むだろう。私はニュースを考える最高のツールは新聞だと思うので、ここでは新聞にのみ焦点を当てて考えてみたい。というのは、新聞には政治や経済、社会、国際問題など幅広い範囲の「最新」の情報が記載されている。もちろん新聞社によって記載されている記事に違いはあれども、大まかな世の中の流れを理解するツールとして最適なのだ。

現状は

さて、考察に戻ろう。柳田が上記のことを述べてから50年以上が経過している。しかし、周りを見渡してみると、新聞を批判的に読むことはおろか、新聞を読むことすら放棄している学生が非常に多いようだ。マイナビの調査によれば、大学生の新聞離れは著しい(https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/38012)。いわんや、高校生や中学生は読む習慣すらないものがほとんどなのではないだろうか。こうした状況から鑑みるに、柳田のいう一人前の選挙民は少なくとも義務教育終了段階では達成されていない。

 その背景

思うに、それは新聞の読み方や「批判的な」読み方を学校で教わっていないことに起因している。すなわち、教育業界がある意味で「サボって」きたのだ。

これからできること

社会科教師としてできることは、1つには新聞を教材として活用して、生徒が新聞に触れる機会を作ることがあげられる。2つには生徒が新聞に目を通す習慣を持つような教育活動をすることである。たとえば、新聞の読み比べや導入教材としての活用、また「気になる」記事を毎回発表させるなどの工夫があるだろう。そのためには教師が率先して情報収集する必要がある。

ここまで新聞教育を推してきた。しかし若干の問題がある。

 

 新聞離れは確かに進んでいる

確かに今の社会で新聞を読む者は「量的」には減少している。しかし、それは一人前の選挙民が減っていることを意味するわけではない。なぜならば、柳田にとって、新聞とは個人が世間との接点を持つための手段であり、それは終戦後における有力なツールだったにすぎない。現代において世間との接点を保つ手段としては、新聞に限らず、ネットニュースやSNS、2ちゃんねるなどのネット掲示板など多くの手段がある。例えば、今年の1月に大統領に就任したアメリカのトランプ大統領は既存のマスメディアではなくTwitterを中心に情報発信をしており、場合によっては、個人が自分で情報収集したほうが新聞よりも早く情報を手に入れられる時もある。今日では、新聞やニュースサイトが個人の発信した情報を報道で活用する例も散見される。

 大事なことは得た情報をどうするか

そして、重要なのはそうしたツールを通じて得た情報を批判的に吟味できるかどうかである。私が前回の記事で文部科学省教育機関の怠慢として批判したかった点は、この知的営為を学校で教えてこなかった点である。そうした怠慢の結果が、選挙において如実に表れていると思う。例えば、2005年の衆議院議員総選挙において、自民党郵政民営化を単一争点として選挙に臨んだ。結果として、自民党は多数の議席を確保し、郵政民営化を断行した。しかし、その時、多くの有権者はどの程度郵政民営化について理解していただろうか。民営化によって市場経済に対応しなければならなくなるのだから、採算の合わない僻地の住民の生活がどうなるのか、当の本人たちは考えたのだろうか。莫大な郵便貯金がどのように使われるか、考えた上での投票だったのだろうか。情報を吟味することなく投票へ向かっていたのではないだろうか。そう思わずにはいられないのだ。

ただ、あまり表には出ないだけで、情報を摂取し批判的に吟味した人々もいただろう。こうした知的態度を持つ人は、ニュースのコメント欄やネットの掲示板、またSNSなどで散見できる。しかし、大規模な社会的事象の結果から大多数の人間がどのような態度をもっているか類推することもできる。その点、柳田の期待した「一人前の選挙民」はまだ有権者の多数派とはなっていないようだ。放置されてきた有権者の質を高めることこそが、教育界、特に社会科教育に課せられた使命だと思う。

安定した政治のための工夫~アメリカ大統領選挙制度の特徴~

 

 

アメリカでは大統領選挙の真最中である。ドナルド・トランプ氏が共和党の正式候補となり、民主党の正式候補となったヒラリー・クリントン氏と激戦を繰り広げている。世界最強国家の首長を決定するだけあって、アメリカ国内だけでなく世界中から、次のリーダーが誰になるのか注目を集めている。そして、太平洋を隔てた日本でもリーダーの選出方法に関する議論がなされている。それが首相公選制である。

 首相公選制とは

首相公選制とは、行政府の長である内閣総理大臣を国民が直接選出する制度である。小泉元首相や橋下徹大阪市長が導入を盛んに主張したことで、国民的議論に火が付いたように思う。賛成意見の多くは、より民意を反映するために国民が首相を直接選ぶべきというものだ。一方、反対意見もあり、候補者が人気取りに終始し、十分な政策論議がなされないといった声もある。実際、中南米では大統領などが独裁者と化し、政治が腐敗してしまった国もある。

 アメリカの政治が安定している背景

権力分立

しかし、国家元首を直接選ぶアメリカでは大きな混乱などなく、政治状況も安定しているように見える。思うに、アメリカの政治状況が安定しているのには、制度的な背景があるのではないか。一つには権力分立が徹底しているという点、もう一つは選挙期間が約一年間とかなり長い点だ。

権力分立の徹底とは、立法府・行政府・司法府の三権で厳しい監視と抑止が相互になされているということである。大統領は国民の直接選挙を通じて選出されるため、民主的正当性が強く、強大な権力がある。例えば、議会に対する拒否権や条約締結権を保持している。しかし、議会にも強い権限があり、大統領が結んだ条約締結の同意権や弾劾裁判を設置することで非行のあった大統領を罷免することができる。このように大統領が独裁化しないような制度的工夫がなされており、また、裁判所は違憲立法審査権を持っているため、立法権司法権に対する司法権の優位が制度化されている。三権が相互に抑制しあうことで、いずれかの機関が独裁化しないようになっている。

 選挙期間の長さ

選挙期間の長さも政治状況の安定に寄与している。アメリカの大統領選挙は約一年間かけて行われる。まず、政党ごとの候補者争いである予備選挙が行われる。予備選挙には7,8か月ほどの期間を要し、政党ごとの候補者が決定した後に、各政党の候補者同士が争う本選挙が行われる。本選挙は二か月ほどかけて行われる。

こうした選挙期間の長さは、有権者が候補者を認知し、また候補者について学ぶ時間を提供している。さらには、予備選挙と本選挙に分かれているために、有権者が節目ごとに候補者選びを意識する制度的工夫がなされている。選挙期間の長さによって有権者は候補者について十分に学ぶことができ、十分な政策論議ができ、一時の熱情ではなく冷静に候補者を選ぶことができる。そして、段階ごとの選挙方式によって、有権者が選挙に興味を失わない工夫がなされている。長い時間をかけて選ばれた候補者は民意をより反映しているのだ。

巧みな制度設計

厳格な権力分立と長期間の大統領選挙の存在が、アメリカに安定した政治状況をもたらしている。建国者の巧みな制度設計によって、アメリカが国家元首を直接選出する方法を採用していても、大きな混乱がないといえよう。さて、次の大統領は誰なのか、遠い日本に住む私も興味津々である。

北海道新幹線から考える資本主義

 

 

北海道新幹線の開業

北海道新幹線が3月26日に開業してから3週間が経過した。整備計画が立てられてから実に43年が経過しており、まさに日本中を新幹線で結びつけるという「悲願」が達成された事業だといえる。しかし、前評判ほど業績は良くないようだ。開業2週間時点での平均乗車率は27%を記録しており、JR北海道によれば「今後3年間の収支見通しは約48億円の赤字」である。

北海道新幹線が赤字を出している背景

こうした事態は、人々が新たな移動手段を求めていないこと、とりわけ北海道への新たな移動手段を求めていないということを意味している。消費者は既存の手段で満足しており、もはや開拓する市場がほとんどないのである。
市場はモノとモノを交換する場であり、モノの中には財だけでなくサービスも含まれる。そうしたモノの交換は必要性から生じる。例えば、人々が移動において「速さ」を求めるなら、自動車より電車、電車よりも飛行機というように、より早く移動できるサービスを求める。電車だけを見ても、普通列車よりも快速列車、快速列車よりも新幹線、新幹線よりもリニアモーターカーというようにより速度の速い移動手段を利用するだろう。ましてや飛行機であれば、どれだけ時間を節約できるか。

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北海道新幹線の価値はどこにあるのだろうか

翻って見ると、北海道新幹線は東京-函館間で飛行機による移動の1.5倍の時間がかかるため、既存の移動手段に対して「速さ」という点で劣っている。価格という点から見ても、特段安いわけではない。したがって、既存の移動手段と比べて市場価値があるとは言えないだろう。

暴走列車「資本主義号」

 必要性がないにもかかわらず、市場ではどんどん新たなモノが作り続けられる。そこには、人々が必要性に駆られて行う交易という市場本来の姿はない。需要のないところに需要を作り出そうとして失敗した。まさに資本主義の暴走という事態が生じているのだ。
資本主義は市場の拡大をその原理としている。つまり、資本を集積し、その資本を元手に新たな市場を開拓することで、さらなる資本の集積を行うのである。カネを投資することで、さらなるカネを呼び寄せ、そしてまた投資するという拡大を基本とするシステムなのだ。

しかし、北海道新幹線の乗車率が3分の1にも満たないという事実は、拡大するべき市場が既につき始めていることを物語っている。あるいは適切な需要を考慮せずに、「悲願達成」だけのために投資してしまったのだろうか。そうだとしたら、それは社会主義経済における計画経済と変わらない。これだけ買うだろうから、これだけ作ってしまおうと。とするなら、供給過多になるのもうなづけるだろう。

国富が減少し、さらには資源の有限性が世界中で叫ばれている。拡大を続ける資本主義も、それを支える旺盛な需要と無限の資源がないともはやシステムを維持することはかなわない。そろそろ日本における資本主義は限界を迎えつつあるのではないだろうか。ニュースを見て、そんなことを考えた。

共同体を作る宗教

 

 

最近、「絆」や「コミュニケーション」、「コミュニティ―」といった言葉をよく耳にする。なぜ、今になって絆やコミュニケーションといったことが注目されるようになったのかを、宗教をキーワードに考えてみたい。

 宗教共同体

宗教とは、人々の共通の価値観を提供するものである。特定の価値観を共有することで、人々は共同体を形成する。すなわち、宗教共同体である。たとえば、中世のヨーロッパではキリスト教が広く普及し、人々の価値観から生活までをも規定していた。共同体の頂点に立っていたのがローマ教皇であり、彼を中心として西ヨーロッパにはキリスト教に基づく宗教共同体が形成されていた。また、イスラーム教においては、その教えに基づく宗教共同体のことをウンマと呼び、人々はウンマにおいてイスラームの教えに従って生活している。ただし、コーランに書かれているままに従うのではなく、現代的に解釈されたイスラーム法に従っている。だから現代でもイスラム法学者は指導的地位にある。では、そうした宗教共同体は日本にあるのだろうか。

 日本における宗教共同体

かつての日本では、人々の生活の領域は小さな共同体に限定されていた。つまり、農村や漁村などの村社会の内部で多くの人々は生活していたのである。人々は互いに面識のある間柄において生活していた。そうした人々によって形成されたのが、「世間」である。

 世間とは

辞書を見ると、世間とは「社会」や「自分の活動・交際の範囲」と定義されている。すなわち、世間とは人々の集合体であり、その集合体はある一定の範囲に限定される。したがって、地域性を持った社会が世間であり、たとえばご近所付き合いや町内会、自治会などが該当するだろう。

世間は社会であると同時に宗教でもある。なぜなら、世間は人々の結びつきの上に作られるものであり、一方で人々に共通の価値観を提供するからである。たとえば、村では村掟という村のルールが作られ、それに反したものは村八分という形で排除された。つまり、共同体を構成するものは村掟という共通の価値観に従うことを要求されるのである。また、「世間様に顔向けできない」という言葉があるように、「世間」が人々の行動の規範となっていたのである。人々の行動を律するという点において、「世間」は宗教的な側面を有しているといえよう。

 現代における変化

しかし、インターネットの普及や都市化によって地域社会における交流がめっきり減少してしまった。つまり、誰かと協力して生きる必要性がなく、娯楽が多様化し、情報を得る手段が広く普及したことによって、社会の個人化が進行し、その結果として地域社会が消滅したのである。それは地域社会における「世間」の消滅を意味し、同時に人々の行動を律するものがなくなったことも意味する。「世間」という宗教がなくなったことで、人々は行動の野放図的な自由を手にしたのである。

世間の消滅がもたらしたもの

「世間」という宗教がなくなったことで、人々は「自由」になった。しかし、その消滅が招いたものは人々の地域社会からの孤立であり、また行動規範たる道徳の崩壊という帰結だったと思う。そうした文脈の中に、人々の紐帯である「絆」だとか、紐帯を作り上げる「コミュニケーション」、そしてその日常的な空間である「コミュニティー」が今の時代になって注目を集めているのだと思う。

社会主義という宗教

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教やキリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 三大宗教について

イスラム

イスラム教はアラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 キリスト教

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 仏教

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 宗教の機能

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 社会主義:現代における新たな宗教か

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。

「普遍的な」人権思想、ヨーロッパで生まれた人権思想

今年は国際人権規約が採択されてから50年になる。なぜかは分からないが、「人権」という言葉を聞くたびに不思議な違和感に襲われる。今日はその人権について考えてみたい。
朕は国家なり」というルイ14世の言葉に現れているように、中世末期のフランスでは王に権力が集中していた。王が権力を独占するという背景には、王権神授説という思想的基盤があった。王権神授説とは、王の権力の正統性は、神が王に権力を授けたことに由来する、という思想である。つまり、中世末期のフランス社会では神を論理の前提に持ち込むほど、キリスト教の影響力が強かった。
やがて、市民革命を経て、権力主体は王から国民へと変わる。その際に援用されたのが、ロックやルソーの社会契約説であった。これは、自然権を持つ各個人が契約によって、社会を作り出すという思想であり、革命後に制定された憲法では、人民主権という形で規定されることとなった。
国民が権力の源泉である正当性はどこにあるのだろうか。社会契約説では、各人が自然権を持つとされている。自然権とは、人が生まれながらにして有する権利であり、具体的には生命・自由・財産などの権利を指す。
王権神授説では王が政治を行う権利を有するのは神に由来していた。その一方で、社会契約説では個々人が自然権という権利を有することを謳っている。これは神が王ではなく個人に権力を付与するということを意味している。例えば、アメリカ独立宣言では、“Men are created equal”と明記されている。これは神が人々を平等に創った(create)から各個人に自然権があるという理屈である。つまり、神が権力を与える主体なのであって、その客体が王から人々に代わっただけなのだ。
しかし、自然権が人々の考え方として普及するだけでは人権理念は絵に描いた餅のままである。人民一人一人が武器をとって王政を打倒した事実が、自然権というフィクションに正当性を与えたのである。
自然権思想はやがて基本的人権という形になっていく。それは、アメリカ合衆国憲法やフランス憲法、そして西洋から大きく離れたここ日本でも、憲法に明確に規定されている。
しかし、基本的人権の成立過程では、キリスト教の影響があった。つまり、基本的人権の考え方はヨーロッパの文化的要素を含んでいるのだ。従って、他文化との摩擦は不可避である。対立とまでいかずとも、制度としての基本的人権と社会におけるその在り方はいつか齟齬をきたす可能性がある。
すなわち、社会契約説が社会の在り方を決めているヨーロッパと、天皇制を掲げる日本では文化的社会的構造が大きく異なる。そうした違いを考慮せずに、単に人権の理念を受け入れるだけでは、摩擦が起きるのは当然であろう。
人権が人々に普及するには、市民一人一人が王政を妥当するという事実が必要であった。現在、人権思想は世界大に拡大していき、多くの人々に受容されている。しかし、それはヨーロッパの歴史的文脈の中で生まれた概念であり、また人々が自ら獲得したという歴史的背景がある。したがって、第二次大戦後に人権が上から降ってきた日本社会とはまったく事情が異なる。努力して獲得せずに上から与えられたという背景があるために、人々が人権を当たり前のものとして受け取っているのだ。だから、その在り方を巡る齟齬が今になって生じているのだと思う。違和感の正体はこのような理念と実態の乖離にあるんだろうか。

新しいアメリカンドリーム

 

 

人は夢を見る。夢は、多くの人を魅了する。1867年のロンドンでマルクスは『資本論』を発表し、それ以降、彼の思想は世界中の人を魅了していった。そして、現在でもなお、大西洋を隔てたアメリカにおいて、マルクス主義から発展した社会主義を掲げる人物が人々を魅了している。バーニー・サンダース氏である。

 

資本主義が国是の国で社会主義者が登場した異様さ

不思議なことに、資本主義が高度に発達したアメリカにおいて社会主義を掲げる人物が人々から一定の支持を受けているのだ。20世紀半ばに赤狩りの名目で多くの共産主義者が公職から追放されたことを鑑みると隔世の感がある。

なぜサンダースが支持を得ているかといえば、アメリカでは深刻な格差が社会問題になっているからだ。一部の富裕層と貧困層との間の所得格差はすさまじく、特に若者は不況の中で失業や学費ローンの支払い等に苦しんでいる。そうした中で財産の分配を通じて平等な社会を目指す社会主義が脚光を浴びているのである。

 

アメリカンドリーム=資本主義での成功

そもそも資本主義とは何だろうか。資本主義は資本が自己増殖するシステムのことだ。資本とは簡単に言えばカネであり、資本主義とは、カネを投資することでさらにカネを増やそうという仕組みのことである。

その前提には、私的財産の所有という大原則がある。つまり、自らが労働という努力で勝ち得たものは、資本という形で自らのものになる。だからこそ、資本主義体制においては誰しもが努力すれば富を得ることができるという前提がある。これこそがアメリカンドリームの正体であり、かつて多くの人がこの夢を見て、アメリカに移住してきたのであった。

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夢の裏側にあるものは…

しかし、現実には財産は子や孫へ受け継がれていき、一部の層が独占したまま経済的な格差が固定化してしまう。そうした社会的な要因に加えて政治的な要因も格差の固定化を助長する。アメリカでは、政党による代議士への拘束がないため、議員立法が盛んである。そのため、個人が代議士などに直接働きかけるロビイング活動も活発に行われている。富裕層はロビイストを雇い、政治過程に影響力を行使することで、税制面での優遇や公共投資など自らに有利な立法を促す。こうして持てるものと持たざる者との間の格差はますます拡大化し、固定化していくのだ。夢はその前提条件が保持されない限り、単なる妄想と化してしまうのである。

 

新しい夢を求める人々

格差の固定化によって、誰しもが努力すれば富を得ることができるという資本主義の夢は崩壊してしまった。つまり、建前と実態で大きな矛盾が生じているのだ。サンダース氏が支持を受けているという「本来ならばあり得なかった」現象は、社会主義という新しいアメリカンドリームを見る人が増えていることを意味している。

 

夢は見ている間はさも現実かのように見える。その点で資本主義も社会主義も変わりはない。問題はどちらが自分にとって都合がいいかである。資本主義が一定の人から支持されている一方で、不支持も広がっている。大統領選挙を見ていて、そんなことを考えた。 

立法とは何か

イギリス人民は、選挙中は自由だが、選挙が終われば忽ち奴隷となるという言葉をルソーは残している。この言葉は今の我々の議会制民主主義を考える上で大きな示唆を含んでいる。今日は議会の主な役割である立法機能について、日本の「国会」を例に考えてみたい。

 

日本国憲法41条に拠れば、国会は「国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関」であるとして、国会に立法機関としての地位が与えられている。では、そもそも立法とは何だろうか。

 

立法とは、法律を制定する国家作用を意味する。この場合の法律は、国民全体に関わるあらゆる事項のルールを定めたものである。つまり、不特定多数の人びとに対して、不特定多数の事柄や事件に適用される一般的抽象的な法規範を指す。立法とは、このような一般的抽象的な法規範を制定する国家作用なのだ。

 

ここからルソーの主張を引き出せる。すなわち、ルソーは、立法過程にはあらゆる人が関わらなければならないと述べているが、その意味するところは、法律は政治単位内のあらゆる人に関わるのだから、その制定過程を誰かが代表することはできないということである。だから、政治単位内のあらゆる人の参加が必要なのだと主張している。

 

しかし、近代の国民国家の登場以降、国家という政治単位内の全員が立法過程に直接参加するのは現実的には困難である。したがって、民主主義を掲げる国家は、選挙という形で「全員が立法に関われる」ような制度設計を行った。つまり、全員が立法に関わっているというフィクションを作り上げたのである。

 

フィクション化したのに、代表されている感がないから、投票率が低下した。にもかかわらず18歳に選挙権を拡大したところで、最初はともかく、まもなく投票率は再び低下するだろう。解決策は代表されている感をしっかり出して再びフィクションを信じさせることの他にはない。そして、そうしないと議会制民主主義が成り立たない。