ここまでのシリーズでは、プラトン哲学の概要についてお話してきました。
けれども、彼の哲学は日常生活でも、かなり役に立つ考え方なんです。
今回は故野村監督とプラトン哲学の共通点とその効用についてお伝えします。
▼プラトン哲学の記事です。
野村監督の「とは理論」
野村克也監督といえば、ヤクルト、阪神、楽天といった球団を優勝に導いた名将です。
現役時代は三冠王に耀き、監督としても偉業を成し遂げた野村監督。
彼は、野球は肉体と同じ以上に頭を使うスポーツだと述べています。
野球というスポーツを考えてするようになってからというもの、私は何かにつけて「~とは?」と考えてしまうクセがついた。野球の本質を考えれば「野球とは?」を考えざるを得ず、それを突き詰めて考えていくと「攻撃とは?」「守備とは?」「打者とは?」「投手とは?」とどんどん細分化されていく。
私はそれらをメモしながら、時に俯瞰して「野球」というものを捉え直す。すると、自分にとっての「野球哲学」が、おぼろげに見えてくるのだ。ちなみに私が「野球とは?」と問われれば、「考えるスポーツです」と答えるだろう。
「~とは?」と考えることは、この社会で働く人たちすべてにとても大切なことだと思う。「経済とは?」「会社とは?」「営業とは?」「交渉とは?」など、自分の仕事に関して細かく突き詰めていけば、業績を上げるための方向性が自ずと定まり、それがあなた自身の仕事の哲学、あるいは経営哲学になっていくのだ。
物事の本質を考え、その理想を掲げることで、日々の行動が明確化していきます。
たとえば、「教育とは何か?」を考え、その本質を見極めることで、どのような授業をするのか、どのように生徒と接していくのか、教師としてのあり方が自ずと見えてくるでしょう。
物事の本質を捉え、明確に定義することで、働き方や生き方、世界の見方が変わってきます。
これは分析の基本でもあります。
たとえば、「理想の営業とは?」という理想像が自分の中にあれば、現実の行動を振り返る判断基準になりますし、今後の行動の指針にもなります。
こうした本質は日々の膨大な観察によって形作られていきます。
野村監督は来る日も来る日も膨大なメモと向き合い、分析を欠かさなかったことで、本質へと近づいていったのでしょう。
プラトン哲学との共通点
彼は、イデアという永遠不変の本質がある!といった人物です。
イデアとは何か?
簡単に言えば、我々が見ている世界は変化が激しく、永遠のものはないが、別の世界にイデアという永遠不変の、理想的な存在がある、といったわけです。
たとえば、この世には大きい馬や小さい馬、たてがみが長い馬、短い馬など一つとして同じものはありません。それでも、我々がそれを「馬」だと認識できるのは、どこかで理想的な馬の姿、馬の本質を既に知っているからだとプラトンは考えました(ちょっと無理がありますが)。
つまり、ここでいえることは、明確な概念を持っていることで現実の事象を分析することができる、ということです。
これは目に見えるもの、見えないものにかかわらず、分析の前提となるものです。
たとえば、「鶏とは何か?」と考えて定義すれば、「コケコッコーと鳴くこと、羽ばたくこと」などが本質として浮かび上がってきます。そうすれば、カラスと鶏の区別がつきます。「美しさとは何か?」と考えて定義すれば、「黄金比」などが本質として上がるかもしれません(古代ギリシャでは)。そうすれば、美しくないもの、美しいものを分析できるようになるでしょう。
政治に対する関心が強かったプラトンは、理想の国家・理想の政治を実現しようと、現実の政治改革にまで乗り出します。
理想が何なのか、自分の中に答えがあったからこそ、現実の政治を分析し、改革までの道筋を考察できたのでしょう。
まずは概念の定義が大事なわけです。
これはどんなものにも当てはまります。
ただ、プラトンの場合は、そもそも永遠不変の「イデア」=本質があって、それを基に物事を認識しているという論理構成を取っています。
しかし、野村監督の場合は、現実の膨大なデータを分析した上で、「~とは?」を考え、本質に近づいていくやりかたなので、二人のイデアへ向かう態度は真逆といえるでしょう。
それでも、自分の中に「~とは」という本質をもつことは、分析に際に大きな武器になります。
「~とは?」と突き詰めていく大切さは古今東西、変わらないのですね。
最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の記事が皆様のお役に立てれば幸いです。
それでは!
参考
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