新卒教員の教科書

新卒教員の教科書

新卒のあの頃の自分へ向けたメッセージをつらつらと書いております。『新卒教員としてのオリジナルテキスト』をつくろうという試みによるブログ。社会科のこととかビビッときた本の書評とか日常生活のこととか。

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政治家がダメでも日本がしっかり機能している理由

 

www.jiji.com

 

「自分(有能なリーダー)がいなくとも回る組織が強い」

 

ビジネスの世界でよく耳にする言葉である。

 

これは、ビジネスだけでなく、官公庁や学校などありとあらゆる組織において通ずるものだと思っている。

 

 

社会科学の欠点

 

技術担当者

 

社会科学の欠点は、自然科学と違って、意図的に(社会)実験ができないことである。

実験とは、仮説を立て、ある条件の下で、それを検証し、一定の結論を導き出すことである。

 

だが、今回のコロナ禍では、皮肉にも世界各国が(国によって異なる条件はあれども)ほぼ同じ条件下でコロナ対策に国を挙げて取り組まざるを得なくなった。

 

通常、我々は国家の政策を、他国や国内の過去の事例などと比較したり、何らかの原理に基づいて推論を働かせたり、様々な思考の営みをしたうえで結論付けている。

 

ただし、これには考える材料としての知識がないと正しい結論には至れない。その材料の最たるものが過去の事例なのである。事例というのは、政策を実際にやってみて、得た効果や欠点など、実験のレポートであり、それが考える幅を拡張させてくれる。

 

だから、今回のコロナ禍で世界各国がほぼ横並びにコロナ対策に取り組んだことは、自国の政策を考察する材料が大量に手に入ったことを意味する。同時代の政府を比較する「横の視点」を得たのだ*1

 

各国が同時にセンター試験を受けているようなものである。

 

日本の対応

 

コロナ対策をめぐる政府の対応に関して、思うところはいくつかある。

補償が後手後手に回ったり、リーダーシップが発揮されている、とは中々言い難いと思う。

だが、それでも国際的に比較すると、日本の感染者数・死者数ともに抑えられていると思われる。

 

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外務省資料「新型コロナウイルス 国別感染者数の推移」

https://www.anzen.mofa.go.jp/covid19/country_count.html

 

もちろん、昨今の政治過程における不正疑惑によって政府統計の信憑性が疑われていたり、検査数が意図的に抑えられているのではないか、という批判もあるだろうが、今日までの政府の取り組みで一定程度抑制できていることも事実だろう。

 

だが、「政府が有能だから」という理由だけで、こうした結果が出ている、とは思わない。

日本の場合、為政者ではなく、部下、そして国民が優秀であるため、こうした成果がもたらされていたと思われる。

 

有能なスタッフが組織を回す

 

Most Distinguished Leader of the Year for Minority Business Award

 

危機や有事の際、為政者のリーダーシップの有無が顕在化する。

今回、東京都の小池知事や大阪府の吉村知事のリーダーシップが大きく注目された(実態はメディアに頻繁に出て、働いているように「見せかけている」としても、だ)。

 

一方で中央政府の対応は後手後手であった。各国の首脳がロックダウン(都市封鎖)を決定し、経済活動を停滞させる企業や労働者への補償を決める一方で、永田町では「お肉だ!魚だ!」が真剣に議論されていた。ある大臣が「がんばっている清掃業者のためにごみ袋にお絵かきしよう!」と提案したときは言葉が出なかった。

そもそも政治家は何かの専門家ではない。選挙で票を集めるプロであり、専門的知識以外のコミュニケーション力や弁舌等が問われるのであって、有事の際に適切な判断を下すことに長けているわけではない。

もちろん国民代表である政治家が政策決定をするのであるが、その判断を大きく支えているのが政府の専門家会議であったり、官僚なのである。

 

www.newsweekjapan.jp

 

日本は古来より行政国家であった。当然である。巨大な官僚制を要する中国の影響を大きく受けて行政体制が形成されていったのであるから。

戦乱の世を経て、再び江戸時代になり、太平の世が訪れる。巨大な官僚機構が250年以上かけて成熟していき、明治国家にも受け継がれていく。そして、敗戦後もGHQの占領を巧みにかわした官僚制が、現在まで存続してきた。敗戦後の復興しかり、世界的な経済大国への躍進しかり、表舞台にいた政治家ももちろん重要であるが、その背後には優秀な官僚がいて、彼らが日本政治を支えてきたともいえるのだ。

 

高度経済成長下においては、その官僚とタッグを組み、猛烈に働いた企業人の努力が実を結んだのである。

 

為政者が有能ではなくとも、有能な部下が組織を回す仕組みがきちんと働いていたのである。

 

20191229 Daijuji 3

 

日本の政治を古代から眺めると、世襲で為政者になる場合が多い。

血縁と有能さには因果関係がない。だから、帝王学君主論を教育するのである。しかし、幼稚舎からエスカレーターで大学進学をして、政治家の親のコネで内定を得て、当選を果たして、果たして、それで能力は磨かれるのだろうか。

財を成した一代目は勤勉で努力を絶えず行ってきたという。明治期に政治家家系としての先端を切り開いた鳩山和夫鳩山一郎の父)や戦前の官僚である岸信介は非常に聡明であった。しかし、孫である三代目ともなれば、生まれた時から財が当たり前のものとして周りにあるわけである。かといって、昭和天皇のように乃木希典東郷平八郎から薫陶を受けるわけではない。

世襲議員に批判が集まるのは、為政者としてのリーダーシップや国家百年の大計があって「社会を変えたいという熱意があり」「能力があって」政治家になるわけではなく、すでに親がもっていた地盤・看板・かばんを引き継いで政治家になったからである。

先代が築き上げた資産を食いつぶしていれば、よっぽどのことがあれば当選する。つまり、前述した「当選するための個人の能力」もあるかは定かではないのである。

 

それでも日本がしっかり機能している理由

それでも、日本がこれだけしっかりと機能しているのはなぜか。

それは、日本を組織としてみたときに、スタッフである官僚や企業、国民が優秀だからである。また、政府へ提言する専門家会議も極めて大きく存在感を持っていた。

日本のロックダウンは欧米と異なり、強制力は極めて限定的である。それでも、繁華街への人出が大きく減ったのは、人々が「自粛」をしたからである。

加えて、人々の高い衛生観念や国民皆保険というシステムの存在が大きかった。

裏を返せば、全体主義的で「世間」という同調圧力が働いていたともいえる。けれども、事実として多くの人が外出を控え、家にいたのである。

「みんな我慢しているから、自分も控える」という連帯のようなものともいえるだろう。こうした民度の高さは誇っていいのではないか。そして、それを指揮する適切な政策を提言できる専門家を揃えられた。

つまり、有能なリーダーが不在であろうと、強固なシステムと有能な部下がいれば、組織は回る*2

 

 

だから、今回感じたことは、カリスマではなく、有能なスタッフを数多く育てる必要性である。

そもそもカリスマは学校から出てこない。スティーブ・ジョブズスタンフォード大を中退したし、田中角栄は大学を出ることができなかった。

けれども、有能なスタッフは学校教育を経ている。この辺りに次世代の教育を考えるヒントがありそうな気がした。強力なリーダーシップを育てるのではなく、チームワークで課題を解決する、そんな人々の在り方からヒントを得た。

*1:過去との比較としての「縦の視点」としては、ペストやコレラ対策に人類がどう向き合ってきたか、歴史的な書物が大量にある。

*2:とすれば、代議制民主主義を続ける理由って何ですかね。

ピアレポートについての試論

 

 

オンライン疲れ?

GWが空けても、ウィズコロナで生活しなければならない。

そう思うとなかなか憂鬱で、平時には喉から手が出るほど欲しかったゆとりも、今では「だるさ」と「憂鬱さ」の支配する「新しい日常」へと変わってしまった。

 

なんというか、メリハリがないのである。

 

教員がこんな有様なのだから、生徒達はもっと辛いのではないだろうか。

多感な時期である。部活動に打ち込みたかった生徒、新しい出会いにワクワクしていた生徒たちは、きっと辛い思いをしているだろう(むしろオンライン授業の方が楽だという生徒もいる)。

 

慣れは怖い

オンライン授業が始まって約1か月。

最初は「アタラシイ」試みで慣れないPCの前で頑張っていた生徒たちも、しんどくなってくるころである。

 

兆候はGW前からあった。個人課題を提出しない生徒が出てきたのである。

教科間で調整しないため、課題の量は膨大になる。すべての生徒が自律的ではないから、できない子が出てくる(キャパオーバーである)。

課題提出ができないとモノ申せば、教員は配慮するが、信頼関係をろくに構築できていない中で、意見を「わざわざ」言うのは気が引けるという生徒もいる。

そういった生徒一人ひとりには、教員が丁寧に丁寧にケアしなければならない。

 

問題は「個人で課題を行う」だけだと、「別に誰にも迷惑が掛からないし、良いか」という心情が生まれるのである。自由主義的な発想である。

 

ピアレポートについての試論

 

PSA Peer Review

 

では、どうすれば課題をこなすか。

1つは、「課題の面白さ」である。当事者性を喚起したり、自分にとって思い入れの深いテーマだったり、知的好奇心を刺激されたりすれば、おのずと課題に向かう(これは私個人の教科教育の至らなさの課題である)。要は生徒個人の「真面目さ」や「やる気」に依存するシステムは危険なのだ。

もう1つは、「他者危害の原則」という自由主義的な道徳心を利用するシステムである。つまり、自分に役割が振られていて、自分がやらない限り、他者に迷惑がかかる、というシステムにすると、動かざるを得ないのである。

それで、共同で課題をこなすシステムを考えていた。それがピア・レポートである。

 

で、具体的な実施方法としては、下記のようになる。

イデアその1(執筆のみ)

 レポート課題を提示する。
 その際、2人グループを作らせ、役割分担するよう指示する。
 ※この指示が的確で、自分が何をすべきかが明確であることが極めて重要
 たとえば、課題を2セクションに分け、リーダーの役割を最終的なまとめ・校正(論理的なつながりはおかしくないか)とする。とすれば、2セクションはそれぞれが執筆し、それが終わらない限りリーダーはまとめる事が出来ないのである。
 ともすれば、「やる気があろうがなかろうが」やらざるを得ないわけである。問題は2セクションをどのくらいのスピードで執筆するかわからないため、リーダーがストレスを抱えてしまうかもしれない点である。(たとえば、リーダーには加点するとかでインセンティブが与えられるかな)。

 

イデアその2(執筆と評価)

 レポート課題を提示する 
 その際、2人グループを作らせ、それぞれが課題に対する文章を書く。
 文章を書き終わったら、相手に見せてコメントをもらい、また書き直す。
 前提として、教員が評価の観点を生徒に渡すことが重要となる(生徒は何をもってj評価すればいいのか明確になるから)

 

今は、オンラインツールが非常にそろっていて、共同編集が容易になっている。

つまり、ピアレポートのハードルがかなり低いのである。

グーグルドキュメント様々である(GAFA以前の世界には戻れない)。

 

目的は何かを常に考えよう

断っておかねばならないのは、生徒が全員課題をやるにはどうしたらいいか仕組みを考える、が今回のメインテーマではなく、ピアレポートをやってみようかなーと思っていたので事前に整理してみた、というのがメインである。

協働の利点は、意見の交流による視野の拡大である。

 

www.yutorix.com

 

オンライン授業はデザインがかなり重要で、リアル授業でサボっていたツケがここにきて痛恨の一撃を筆者に与えている。で、これはアフターコロナでも重要な力だと言えるので、ここで鍛えないと話にならんなとも思う。

教科教育の引き出しに加えて、教育技法の引き出しもどんどん足していかなければなぁと思うので、読者の皆さん、もし参考になりそうな文献がありましたら、どうぞご教授ください。

 

それでは。

  

子どもたちには社会的な見方・考え方をもたせよう!【新学習指導要領の考え方】

 

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授業が変わる

 

日本の公教育のマニュアルといえば「学習指導要領」です。

 

このマニュアルは10年ごとに改訂されているのですが、既に2020年度からは小学校で、2021年度からは中学校で、そして2022年からは高校から全面的に実施されることが決まっています(下図参照)。

ちなみに高校も既に移行期間に入っているので、個人的には「ついに公共始まるな、熱いな…!」とワクワクしています。

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学習指導要領改訂・移行・実施のスケジュール https://www.gov-online.go.jp/useful/article/201903/2.html

 

で、今回の学習指導要領改訂の特徴は、「育成すべき資質・能力」から逆算して編成されているということです。

今までの学習指導要領は学習内容ありきで編成されていました。ですから、教科を超えて体系的に能力を育む、というより、「この内容を教えるべきで、こういう順序でやったらええんじゃないかの~」というコンテンツベースで作られていたのです。

しかし、次期学習指導要領は資質・能力ベースとなります。たとえば、批判的思考力を身につけさせたい、だから各教科ではこう教えるべきだ、というふうに根拠となるロジックが180度変わるわけですね。

この辺の議論は那須先生の著作に書かれていますので、気になる方は書店へ!

 

 

社会科ではどうなるか

 

那須先生の議論によれば、教科を超えた汎用的な資質・能力と、学習内容を結ぶものとして、「教科固有の見方・考え方」を働かせることが重要となるそうです。

 

社会科でいえば、「社会的な見方・考え方」

筆者の専門である公民科でいえば、現代社会の見方・考え方」です。

 

で、見方・考え方って何なのか、ということですが、一例として「社会的な見方・考え方」を引っ張ってきました。

(a)「社会的事象等の意味や意義、特色や相互の関連を捉える視点や方法(考え方)」

(b)「よりよい社会の構築に向けて課題の解決のために選択・判断するための視点や方法(考え方)」

(橋本康弘『「公共」の授業を創る』14頁)

 

 

簡単に言えば、世の中をただ単純に眺めるのではなく、分析や批判の際に軸となる原理であって、②社会参画や理想の社会を構想する時に判断・決定する際の考え方だと私は解釈しています。

①の例としては、たとえば、立憲主義を知っていれば、改憲案の是非を考える一助となるでしょう。

②の例としては、リベラリズム社会民主主義を習得していれば、理想社会のあり方を考える際に判断軸となるでしょう。

 

ちなみに橋本先生の本では、「公共」における見方・考え方として、

 幸福、正義、公正、人間の尊厳と平等、共同の利益と社会の安定性の確保、個人の尊重、民主主義、法の支配、自由・権利と責任・義務など

(同16頁)

という形で列挙されています(学習指導要領に則った形ですね)。

 

実際に働かせてみた

 

で、現実的な文脈で社会的な見方・考え方を働かせるシーンとしては、ニュースなど社会的事象を見る際に働かせることが一番多いパターンなのかなと思っています(投票の前などにも働かせてほしいですね)。

 

で、見方・考え方を働かせる一例として、次のような例があるのかなと思っています。

※お見苦しいかもしれませんが、ツイートをバンバン貼っていきます。

 

 

 

つまり、どういうことよ?

 

元のニュースは「安倍政権が数億ドル規模で海外への支援を表明した」というものです。

 

でも、これだけ伝えられても、背景にある仕組みや政権の意図がわからなければ、自分のもっている情報だけで文脈を勝手に創ってしまいますよね。

で、理論がなければ、つまり見方・考え方をもっていなければ、「感情」でしか判断できなくなるわけです。

一人一人が理性的に判断することを求める民主主義社会にとって、多くの人が「感情的に」判断してしまえば、それは民主主義の崩壊につながります。

ですから、ニュースを分析する枠組みとして見方・考え方が必要となるのです。

 

今回働かせた見方としては次の通りです。

①日本外交の原則には「国際協調主義」があること、②国際社会は理念だけでなく国益に基づいて動くというリアリズムの原則、③外貨準備高や為替などの国際経済の理論

 

このように、見方・考え方とは、ニュースを分析する、目の前の社会的事象を分析する、理論・原理です。

これらは全て高校までの公民科で学習する内容です。

 

こうした原理がたくさんあればあるほど、物事の本質が見えてきます。

今後の授業では、こうした見方ができるような生徒を育てることが求められています。

とにかく教えるのではなく、考えさせる。そして、自分がもっている考え方に自覚的にさせる。自戒の念も込めて、こうした授業を引き続き続けていきたいと思います。

 

表題には「子どもたち」と書きましたが、本来であれば老若男女問わず持つべき者だと考えています。

 

※ちょっと中二病っぽいので言わなかったのですが、僕個人としては見方・考え方を生徒たちが持てるようにすることを「武器を持たせる」と言いたいなと考えてます。笑

完全に瀧本先生の影響を受けています。既になくなられていますが、瀧本先生の著作は論旨明快で、それでいて非常にパッションを伴った内容です。非常におすすめですので、是非ご一読を! 

 

※ちなみに冒頭の絵は僕が描きました。抽象画ではありません。

 

 

 

「正直に言いなさい」という道徳と、黙秘権という憲法の乖離

 

※随筆です。

 

Investigation

 

人は過ちを犯す生き物である。

誰しも一度は悪事を働いただろう。

それが明るみになったとき、親や先生から「正直に言いなさい」と諭されて育ってきた人は多い。

正直に述べ、そして反省することは望ましいこととされてきた。

そして、大人になっても「正直であること」は美徳とされる。

 

生育過程で何度となく繰り返されてきた規範は、心の奥底に沁みついてしまう。

素朴な道徳感情は、カントの言う「実践理性」のように、人々の行動を縛るものであるから、大人になっても一定の影響力を持っている。

 

しかし、日本国憲法にはそれと相反する規定がある。

 

日本国憲法第38条第3項にはこう書いてある。

 

第38条第3項 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

 

「黙秘権」という形で、真犯人であれ、被疑者・被告人には黙っていることが権利として認められているのである。

 

こうした司法社会でのロジックと、日常生活でのロジックの乖離は、どうやって埋めるべきなのだろうか。

 

それが学校であって、特に公民科における憲法教育なのだろう。

なぜ、教壇に立っているのか

 

あなたはなぜ教壇に立つのですか。

 

こう聞かれて、どう答えますか?

 

大学時代の教職課程、おぼろげな記憶をさかのぼると、周りに結構多かったのが「親が教師だから」「教師にあこがれたから」という理由だった。

 

別にこれ自体は悪くない。むしろ尊敬できるロールモデルに生育過程の中で出会えたことはとっても幸せなことであるし、人生の目標を持てることは、その目標実現のために行動を最適化できる。そういう意味では、むしろ教師になるなど大学入学時点で一ミリも考えていなかった自分はだいぶ遠回りをしたと思う。

 

www.yutorix.com

 

僕が教員になろうと考えた理由はきわめてシンプルで、この国の民主主義をよりよくするために、自分が持てる資源を活用して一番効果的な職は何かと考えたら教師が良かったというだけである。

 

だから、僕が教壇に立つ理由は、目の前の生徒が民主主義の担い手として十分な資質・能力・信念を備えさせるため、と答えたい。

 

Education

 

最近、教育学の勉強を本格的にしている。

政治学社会学から研究を出発している僕にとって、教育学はかなり未知の分野だった。でも、そのおかげで、自分の大学院時代の研究が目の前の仕事とようやくつながりを持ち始めた。

 

まだまだ理論も付け焼き刃だし、自分のものとして消化し切れていない感があるけれども、この1年はどんどん摂取していこう。

市場の課題解決能力って高いけども、市場が機能しなければジリ貧になるんだよね

 

※ただの感想です。

 

 

僕は田舎に住んでいるのだが、近くのドラッグストアにはトイレットペーパーやらティッシュが山のように積まれている(マスクはない)。

ただ、都心(結構裕福な街)に行くと平日の昼間からドラッグストア(中には文房具屋)に並んで、トイレットペーパーやらティッシュを待ちわびている人たちがいる。

 

あれ、なんでお金持ちがこんなところに並んでいるんだろう、というふとした疑問からこの話は始まった。

 

お金は手段

Money

お金を貯める人は多い。何のためかと問われれば「将来(の不安)のため」と答える人も多い。

 

でも、お金は使ってなんぼである。使わなければただの紙切れだし、政府が新円に突然切り替えればホントに紙切れになってしまうこともある(戦後すぐの時期、インフレ対策で交換に制限を設けられた形で新円切り替えが行われた。加えて超高率の所得税が欠けられて、富裕層が軒並み没落しました。マジです)。

 

お金は財・サービスの対価として支払うものである。つまり、お金は何かを得るための手段なのだ。手段は目標に従属するもので、主とはならない。だから、せっせとお金を貯めても、お金を貯める・集めることが目的にしては本末転倒なのである。

 

さて、市場とは、貨幣を仲立ちにして需要者と供給者が財を交換する場のこと。

払うお金に応じて受け取る財・サービスの量・質は上がっていく。

だから、何か困ったことがあっても、お金があれば融通が利くことが多い。これは歴史上変わらない原理だ(現世では例外はあれども、地獄の沙汰も金次第というし、「あの世」でも通じる原理だ)。

 

だから、資本主義社会だとお金持ちが強い。

金をもてば持つほど市場の課題解決能力の恩恵に授かれるからだ。

 

しかし、市場は常に機能するとは限らない。

非常時においては生活必需品の過度な需要に対し、生産が追い付かず、超過需要に陥ってしまう場合がある。そうなれば、過度なインフレで値段は天井知らず。しかも、量が限られているからオークション形式でどんどんアップしていく。

そうなると究極のお金持ちしか手を出せなくなる。ジリ貧である。

 

市場が機能しなくなるとき

Scott Toilet Paper

僕らは教科書で市場の変化する姿をさんざん勉強してきた。

第二次世界大戦期、都市部のお金持ちでも物資を手に入れるのは大変で、その点農家などの自給自足ができる人たち、軍人などの国家的に重要な職に就く人たちに優先して配給された。

 

しかし、それは国家が市場を管理していた時代の話で、今は国家の干渉は最低限(のはずだ)。それから70年以上が経ち、あまりにも管理されなくなって、今度は市場が暴走し始めた。

 

こういう市場の暴走を懸念して、「市場に大事なことは儲けることだけでなくて、人びとの「共感」も重要なんですよ」ってアダム・スミスが言っていたのを思い出す。市場と倫理はセットなんだと。

 

そして、現在。

人々はティッシュやトイレットペーパー、マスクなどを求めている。需要は大いにある。平時であれば、この需要をマーケティング部が見逃すはずがない。

けれども今は非常時である。自宅勤務を命じられた労働者もいるし、中には感染した労働者もいるかもしれない。工場だって稼働できるか微妙なところである。そうなれば供給体制が需要に追いつくわけがない。しかも、世界的な流行だから輸入すれば解決できるわけがない。

 

つまり、需要と供給で成立する市場のうち、供給側が需要に追いつくほどには稼働していないのだから、市場が機能していないというわけである。

となれば、いくらお金を積もうとも、肝心のブツがないわけで、市場を通じた課題解決は図ることが困難となる。

 

こういう時には市場以外の領域の人々が動くしかない。つまり、政府か市民である。

政府は今さんざん検討しているところだから口を挟まないが、我々市民にもできることはあるだろう。

「助け合い」という言葉はあまり好きではないが、それでも市場は特定分野では機能していないし、政府への批判など大きなことを考えるよりも、市井の人々でできることを考えた方が合理的だろう。もちろん政府の動きを注視することも大事なのだけど。

 

Adam Smith Wallpaper

アダム・スミスの述べた市場とセットの「倫理」というのは、今のような状況に足りないものなのかなあと思ったりする。

 

※政治制度や経済状況、国際状況など多種多様な視点はあれども、個人の倫理という視点も持つことは悪くないだろう。倫理は、最近の僕のテーマである。

 

それでは。

 

サラリーマンにテレワークは向いていないのか

 

コロナウイルスの影響で一部の企業がテレワークを導入しています。

 

私の友人の企業もテレワークを導入したそうですが、うまくいっているとはいいがたいよう。

 

なぜなのでしょうか?

 

いくつか理由がありますが、そもそも労働は何を基に評価されるのでしょうか?

そしてうまくいくとはどういう状況を指しているのでしょうか?それら働き方について考えていきたいと思います。

 

まず労働は生産行為ですから、何らかの経済的な価値(商品・サービス)を生み出すことが期待されます。ビジネスマンなら私的財・サービス、公務員なら公共財・サービスです。

 

ただ、会社によっては「成果を出すことで評価されるのか」どうかがわかれています。成果を出せば評価されるのなら時間に拘束されることはありません。逆にそうした評価体系がなければ、時間を決めて拘束されます。後者の例として教員は最たるものでしょう。

 

さて、テレワークの導入ですが、全ての企業に妥当なのでしょうか?

否、前者の成果型であれば妥当でしょう。なぜなら成果を出し、そのために必要性で動いているからです。基本的な思考は「成果を出しさえすればいい」のですから、成果を出すためにはフルコミットをします。こういう人は基本的にどこにいても働くわけです。

でも、時間に拘束されているのならその時間帯はずっとテレワークに従事する必要があります。でも、家にいる必然性もないのにそれをしているのならモチベーションは下がります。実際、ネットフリックスやYouTubeを見たり、寝ていたりとダラダラ仕事をしているそうです。というのも人の目、上司の監視がないから仕事をしなくても咎められない。成果を出すことも求められないので、時間内ログインしていればよい。だから、テレワークを導入しても意味がない。だから職場に行くことにも一定の合理性があるなあと思いました。

 

結論としては、評価体系の異なる企業によっては、テレワークの導入は意味をなさないということです。

でも、それが明るみになったのなら、全体として成果型になってくれないかなぁ。教育で成果型って超難しいんですけどね(〇〇大学何名合格とかになっちゃう)。

 

こういう負の側面はありますが、家でやれることなら家でやればいいし、職場に行かなければならないなら行けばいい。そういう柔軟な働き方への可能性を社会実験として見せてくれたのかなあと思っています。

 

今回はインセンティブという経済的な視点から考えてみました。

 

個人的には、職場ではもうちょっと緩い働き方を認めてあげてもいいのかも、たとえば音楽を流すとか。

 

 

※ふと思ったんですが、テレワークを導入した企業が集中しているところだと、飲食店の損失とかすごいんでしょうね。

国立大学の授業料値上げ検討のニュースとヤフコメのまとめ

 

 

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国立大学が授業料を値上げしそうだ。

 

国立大学の状況は厳しい。毎年国立大学に配分されている交付金が減少しており、大学関係者にとっては経営状況の改善が悩みの種となっている。

 

国立大学の授業料は年間で53万5800円という標準額が定められているが、現状は大学独自の判断による2割までなら上げることができる。

今回のニュースは、ここをさらに徹底させようというもの。

つまり、政府が標準額を定めている国立大学の授業料について、大学の裁量で自由に金額を決められる制度の検討が始まった

 

1975年くらいまでは国立大学の授業料は非常に低かった。しかし、そこから2年に1度のペースで授業料は上昇を続け、現在では私立との差は約6割まで縮まっている。

 

ヤフーニュースは辛らつな論調のようである。

ここで国立大学の学費を自由化した場合、一斉に大幅な値上げが実施されるのはほぼ間違いありません。一部から日本の公教育が崩壊するとの指摘も出ていますが、政府は機会の均等についてはあまり重視していないように見受けられます

 2019年10月、大学入学共通テストにおける民間英語試験導入に関して、萩生田文部科学相が「身の丈に合わせて勝負を」と発言したことが問題視されたことがありましたし、2018年には麻生財務相が、国立大学出身の市長に対して「人の税金を使って学校へ行った」と批判するという出来事もありました。今年から大学無償化の施策が始まりますが、現実には極めて所得の低い人しか支援の対象になっておらず、中間層にとってはほとんど恩恵がありません。教育は所得の高い人だけが受けるべきという価値観を持つ政治家が少なくないという現実を考えると、教育の機会平等を確保するのは難しそうです。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

ちなみに昔の授業料はどのくらいか

ちなみに1950年からの授業料を国立・私立別にまとめているグラフがあったので、連符しておく。

物価上昇率を考慮しても安いぞ!

 

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70年にわたる大学授業料の推移をグラフ化してみる(最新) - ガベージニュース

 

なんでこんなに安かったか、それは貧しくても学業優秀であれば、学問へ門戸を開いていたから。エリート養成という機能が国立大学にあったのである。

しかし、そこを自由化してしまえば、本当に階級の再生産になると思うから、入れては如何と思うのですが、、、

 

www.yutorix.com

 

世間の反応は

以下は、ヤフーニュースのコメントを「そう思う順」に並べたものである。上から5つを並べてみた。

 

最も「そう思う」が多いコメント

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「その穴埋めを入学者の親に回す」

もし奨学金が今のような借金のままであるなら、授業料自由化は学業による選別に加えて、親の資産状況という偶然的な要素を前提としてしまうのはまずいんでないかい。

 

2番目

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3番目

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こういう見方をしている人が増えたと思う。

本当かどうかは別にして、世の中は虚構で成り立っているので、虚構が虚構であるとバレてしまったら分断と憎悪が社会を占めるようになってしまいますよ。

 

4番目

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私学に勤める者としては、学校の財務状況として補助金がなければやっていけない現実があるが、関係のない人にとってはこう思うのが普通だと思う。

でも、自由化を突き詰めるといっても、日本の私学はアメリカみたいに超高額な学費にはしてはならない。で、その司令塔が行政だから、補助金を出している。アレ…

ただ、私学も公教育の担い手だから説明責任がいるよね。学習指導要領ガン無視じゃだめですよ。

 

5番目

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まとめ

 

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まだ授業料の自由化が決まったわけではないけども、政府の方針と今までの推移、社会の風潮を見ると、ほぼ自由化は確実っぽい。

で、多くの人はあまり好意的に見ていないと思う(逆にあまりダメージのない高所得者はそもそも人口に占める割合が低い)。つまり、これだけ多くの人が格差が拡がっていて、それを食い止める役目が政府にあるのに、それと逆行していると感じている。政治不信って、こういう経済的な問題に対する政府の無力さに嘆いているところから始まっているのかな。

 

希望を描けるような社会は、誰が作るのだろうか。

統治者なのか、被統治者なのか…

 

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💡教員の本質的な仕事とは何か?-働き方改革と生徒たちの求めることの距離-

 

どうもこんにちは、しらすです。

本題ですが、本質的な仕事とは何でしょうか。

 

 

生徒の思いは

 

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いきなりですが、生徒って基本的に「自分のことを見てもらいたい」のかなあと考えています。

 

僕は定時で帰りたい生き物です。

ですから、なるべく業務削減のために論述等のフィードバックはスタンプの種類を変えて対応してきました。

たとえば、5段階で設定してスタンプを使い分け、相当いい答えが書かれている場合のみコメントをする、という感じにしていました。

 

本質的な仕事は教材研究だと思っていて、これ以外の仕事はなるべく時間をかけないよう、速攻で終わらせる工夫をしてきました。

 

けど、今年は生徒の課題に対してコメントを書くようにしています。基本的には手書きで一人ひとり違うコメントを書いています。書く前は半端じゃない仕事量に途方に暮れるのですが、やっている最中は謎のアドレナリンが出て作業が進みます。生徒の思いが具体的に伝わってくるから嫌いではないんですが、何せ量が多い。正直きつい。

「今日をがんばった者…今日をがんばり始めた者にのみ…明日が来るんだよ…!」という感じで追い詰めておりました。

 

生徒の声は…悪くない

ただし、生徒達には非常に評判が良かった。

それは「全員分のコメントを書くという具体的な労働力」が「自分が見られているという感覚」を可視化しているからだと思います。

というのは、生徒たちからは「えっ!全員にコメント書いたんですか?」とか「ほかの先生は書いてくれないね~」というような意見が出ていたからです。

やっぱり一人ひとりの生徒の根底には「自分を見てほしい」という欲求があり、たとえ見れなくとも「見ているんだよ」というメッセージを送ることが信頼構築に重要なわけです。そして、それはコメントを書くとか具体的な行動を伴って初めて生徒が先生のメッセージを認識するわけですから、やはり労力は割かないといけない。

 

だけども、担任業務だったり、校務分掌だったり、教科以外の仕事が多く、教務に十分な時間を割けない先生は多くいます。そういう理由で私もスタンプで済ませていたんですが。あれもこれもとやっていたら、結局先生は「寝なくても大丈夫マン」しかできない仕事になってしまう。

 

本質的な仕事とは?

 

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生徒の成長を支える上で信頼関係の構築は不可欠です。

授業も学級経営もコミュニケーションの一形態ですから、それが信頼的な性質であった方がいいに決まっています。

そうした努力は本質的な仕事でしょう。

 

ですから、何をどう効率化すべきか、という仕事の振り分けの基準は、子供の成長につながるかどうか、という視点で見て見るべきなのかなと思います。

(まあ、こんな感じで追い詰めてじり貧になるんですが」

 

ただ、これもまだ考える余地がある気がする。

 

それでは。

 

 

 

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【哲学者紹介#001】ハーバーマス-近代の夢を追い続ける-

 

どうもこんにちは、しらすです。今日はハーバーマスという哲学者の紹介です。

 

ハーバーマス】1929年生まれ・ドイツ出身

◆ドイツを中心に活躍する哲学者。御年90歳だが、精力的にメディアで発信するなど勢いは衰えない。

◆戦前はヒトラーユーゲントに参加。一方で、戦後はアメリカ占領に伴う民主主義教育を受けた世代。それらが彼の哲学に影響を及ぼしている。

◆哲学的な立場はフランクフルト学派第二世代に属する。

◆公共圏論、対話的理性、コミュニケーション的行為などを提唱し、哲学や政治学社会学の進歩に与えた影響は計り知れない。

 

「ハーバーマス」の画像検索結果

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%B9

 

 

いきなりだが、理性、というとどういうイメージを持つだろうか。

 

知的、洗練、賢い、合理的…。

おそらく悪いイメージはなく、何か価値のある良い言葉として受け止めている人が多いだろう。

 

それもそのはずで、まさしく理性が近代社会を発展させてきたからだ。

 

理性には成果を志向する、目的を達成するという意味合いがある。こうした理性を「道具的理性」と呼ぶ。

産業革命以降、大量生産を如何に効率よくするか、という点で人類は腐心してきた。機械化が進み、フォーディズムが登場し、様々な改良がおこなわれ、産業の生産性は飛躍的に上昇した。工場では分業が進み、労働者は目的に沿って合理的に動く。

 

こうした工場の合理的な在り方は官僚組織や学校など社会のあらゆるところに波及していった。組織が機能的に分化し、そして組織内においても役割分担がなされる。こうして目的を達成するという点で極めて合理的な組織がつくられていく。

 

こうして分業が進み、(先進国の)社会は豊かになった。けれども、同時に目的に対する価値判断はなされず、ただただ目的を効率的・合理的に達成することが重視されるようになった。

 

こういう視点で見れば、ナチスドイツの官僚は優秀だった。ヒトラーの非人道的なユダヤ人虐殺も、理性を効率よく活用した結果に過ぎない。官僚はヒトラーの意に従って、合理的・効率的に仕事をこなしただけだった。ただ、彼らの欠点は、その仕事の目的に対する価値判断がなかっただけなのである。

過度に理性を信奉した末路は悲惨だった。凡庸な悪はこうして生まれる。

 

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だから、過度な理性信奉は危険だと、戦後の社会では批判されるようになった。その急先鋒がドイツのフランクフルト学派だった。ただ、その学派の中でも、それに異を唱えた人がいた。それがハーバーマスである。

 

ハーバーマス曰く、理性には「目的を達成する」だけの側面ではなく、「価値判断を伴う」側面もあるという。後者の理性を「対話的理性」と呼んだ。

 

対話的理性とは、何が正しいかは自明ではないんだから、みんなでルールなどを決めよう、ということであって、合意を形成する能力のことである。特にグローバル化が進んで、色々な価値観や意見、出自を持つ人が同じ社会でごった返しているような状況かでは何が正しいかなんて誰にも分らない。だから、正しさをみんなで決めよう、という非常に現実的な哲学を提唱したのである。

 

どうして対話的理性などとハーバーマスは言い出したのか。

 

当時、ナチスドイツの反省から「理性のせいでひどい目にあった!」「理性はダメだ」という批判があった。それもハーバーマスの身内のフランクフルト学派を中心にして批判が巻き起こったのだ。

 

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でも、彼に夢があった。近代という時代は、全ての人が理性を持つようになる「啓蒙」の時代であって、それを達成しなければならない。けれども、まだその目標は達成できていない。だからこそ、近代という未完のプロジェクトを完成させるためにも理性の可能性を我々は信じなければならないのだ、と。

 

しかも、前述の「理性批判」というのも、あくまでも目的を達成するという意味での「道具的理性」に対する批判だった。だから、ハーバーマスは何とかして理性の可能性を信じなければならない、近代というプロジェクトを完成させなければならないという信念から、「対話的理性」という新たな理性の地平を拓いたのである。

 

対話的理性という概念は多くの研究を発展させた。こうした研究成果は多くの研究者の論争の中で生み出されていったというところも、彼の生きざまが自身の哲学を体現していると言えるところである。

 

何かを道具的に用いる力も大切だ。

けれど、それが正しいかみんなで話し合う、そんな力も大事なのである。

ハーバーマスは、今もドイツでメディアを通じて発信を続けている。あらゆる人への啓蒙を通じて、近代の夢を追い求めているのだ。