Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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自由民主主義の価値

 

 

中国が目覚ましいスピードで発展を遂げている。台頭する中国を賛美する声が増えていく一方で、日本やアメリカ、EU諸国など自由民主主義諸国の凋落ぶりを嘆く声が聞こえない日はない。しかし、それでも私は声を大にして言いたい。自由民主主義にはそれ自体価値があるのだということを。

 権威主義自由民主主義

権威主義国家において、人々に政治的な自由は保障されていない。たとえば、中国では共産党に対する批判や天安門事件をはじめとした人権弾圧など、政権にとって不利益な情報は検閲の対象になっている。また、ロシアにおいても反政権デモが度々行われているが、その度に主謀者が拘束されている。教科書にもそうした情報は記載されていない。真実が隠蔽されているのだ。

一方で自由民主主義国家においては、政治的自由などの基本的人権が保障されている。自由に物事を考え、それを意見表明し、時には政権に対して示威行動をとる自由が認められているのだ。日本やアメリカでは首相や大統領に対して批判することはもちろん、「(全く品のない)罵詈雑言」ですら認められている。

権威主義国家に対して自由民主主義国家には、こうした利点がある。しかし、問題はそうした利点を活用しよう、つまり権利を行使しようとする人間が減少していることである。日本をはじめとした先進自由民主主義国家では投票率が年々減少している。政治参加から距離をとっている人が増えているのだ。政治過程に参加しない人が増加すれば、現状に対する追認となる。どのような政策をしても為政者がそれを追認と受け取れば、民主主義とは名ばかりの実質的な寡頭制となってしまうだろう。

 経済が発展している間は不満はない

経済が成長し、分配政策が適切になされているうちは権威主義であろうが、自由民主主義であろうが、人々に不満は生じづらい。しかし、成長が鈍化し、分配政策に陰りが見えれば、人々は不満を政権に対して抱くようになる。権威主義国家ではそうした不満を政治過程が吸い上げる仕組みを持たないが、自由民主主義国家ではそれが選挙や世論という形で政治過程に吸い上げられる。権威主義体制と異なり、自由民主義体制の下では、市民の行動次第で政治が変わりうるのだ。

 変えられるチャンスは市民にある

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ここで言えることは、権威主義自由民主主義の大きな違いは、変革の主体が権力者か市民かどうかだということだ。重要なことは、変革の主体であるという自覚を市民がもち、実際に権利を行使することである。そうでなければ、せっかく保障された権利は名前だけの中身のないものとなってしまう。何か社会に不具合が生じたとき、それを自浄していく自己変革能力が自由民主主義にはある。その成否は市民が行動するかどうかにかかっているのである。

行動しようという意欲があっても制度が整備されていなければ、結局気力はそがれる。不満があれば、異議申し立てをできる環境があることが自由民主主義の強みなのだ。だからこそ、行動し続けることを市民は求められるのだ。

韓国は「自由」民主主義国家か

 

 

今月10日、韓国が日韓合意に関して一方的な新方針を打ち立てた。文在寅大統領は、合意に関して「再交渉は求めないが、真実と正義という原則に立った解決を促す」と謳った。日韓合意は「最終的かつ不可逆的な解決」ではなかったのだろうか。

 

 日本と韓国の共通性

日本と韓国は自由民主主義という価値観を共有しているといわれる。自由民主主義は自由主義と民主主義という異なる概念が歴史的に混ざり合ってできた政治体制の原則である。自由主義を制度的に具体化したものとして法の支配や権力分立があり、一方民主主義を制度的に具体化したものとして選挙や国民投票などがある。ここで、日本と韓国は本当に自由主義と民主主義という原則を共有しているのか考えてみたい。

 

 そもそも自由主義とは

自由主義とは、個人が自ら意思決定できるように権力者の恣意的な介入を防ぐことを原則とする。つまり、権力者(人)の暴走を法によって防ぐことを根幹に据えている。ここにおける法とは正義に基づいた法であり、そうした正義の法に基づいて統治が行われることを法の支配という。

しかし、現代社会においては価値観が多様化し、あらかじめ正義について共通の理解が存在し得ない。ましてや歴史的背景や文化の異なる国家間ではなおさらであろう。したがって、両国間の合意が互いにとっての正義となる。日韓合意が「最終的かつ不可逆的な解決」を謳ったのであれば、その正義(合意)に従うことが法の支配を尊重することになる.

また、現行の国際法には「合意は拘束する(Pacta sunt servanda)」という原則がある。両国間が一旦合意したのであれば、その合意に拘束されなければならない。韓国は一方的に新たな方針を出して、これを反故にしたのであり、法の支配という原則を自ら放棄しているのである。

 

 民主主義の視点から見ると

ただ、合意を発表した当時と政権が交代したのだから、合意は「今の」韓国世論を反映せず、正当性がないという批判がある。確かに、日韓合意は公式の文書が交わされておらず、日韓の外務大臣が共同記者会見を開いて発表されたものである。条約ほどの法的拘束力もない。しかし、世論を反映していないから正当性が欠けているというのは、民主的な正当性の欠如の問題であり、自由主義の射程を越えている。つまり、こうした批判の前提には、法ではなく人が統治の根幹になっているのである。民主主義という次元からの批判なので自由主義の放棄についてはなにも言及していないに等しい。

 

つまり?

韓国が国内世論を受けて、日韓合意に関する一方的な新方針を立てたことは、「合意は拘束する」という国際法の原則を破ったことを意味する。さらには、合意を両国にとっての正義と解釈すれば、法の支配を自ら放棄したともいえる。したがって、日本と韓国は民主主義「は」共有するが、法の支配といった自由主義の諸原則は共有していないのである。 

 

苦しむなかれ、中身のない言葉に。

 

 

コミュ力全盛期

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「コミュニケーション能力」、いわゆる「コミュ力」という言葉が幅を利かせている。お笑い芸人などの当意即妙な返しや話の面白さが過度に理想化され、「コミュ力が高い・低い」という評価に一喜一憂する人が増えたように思う。かくいう私もそういった評価をとても気にする性分だった。

 

共通了解を作ろう

 

しかし、言われた人物が、低評価を気にしようが、「コミュ力」を改善することは不可能である。というのも、「コミュ力」という言葉自体が極めてあいまいな言葉であり、感覚的に評価がなされているからである。つまり、評価尺度が明確に言語化・段階化されておらず、そのため共通の基準がないままに評価がなされているのである。

たとえば、コミュ力を「他者と適切に意思疎通する能力」と定義すれば、いくつかの踏むべき行動の段階が見えてくる。まず「自分の思いや考えを言語化できること」が求められる。さらには「それを他者が理解できるよう順序立てて説明できること」、「相手の気持ちや思いを否定せずに、共感の態度を示すことができる」というように細分化をすることができる。逆に言えば、目標もない状態で、どうやってそれ達成し、さらには如何にして達成できたと評価できるだろうか。定義がない状態では不可能なのである。

言葉の持つ影響力

もしも、こうした定義がなされずに、自分が信頼する人物から「コミュ力が低い」と言われたとしよう。その言葉は言われた当人にとっては大きな衝撃を与えるだろう。「コミュ力」がもてはやされる今の社会で、自分の「コミュ力」が低いという評価は時に強迫観念のようにまとわりつくかもしれない。しかし、改善する手立てはない。なぜなら、「コミュ力の構成要素の中でも、何ができないのか」が明確でないため、具体的な改善策を立てられないからである。

昨今の「○○力」を安易に使う風潮には強い憤りを覚える。定義もされず、何が悪いのか感覚的に評価される。評価される人物にとってはたまったものではない。もちろん日常会話や世間話ではさほど気にする必要はないのかもしれない。しかし、コミュニケーションは礼儀やマナー、言語など互いが共有する媒体を通じてなされる。評価をする立場の人は「○○力」が何なのかをしっかりと定義し、さらには何ができて何ができていないのか、その構成要素を明確にしてほしい。それが相手に対して真に思いやりあるコミュニケーションである。

 解決策

逆に、「○○力」が低いという評価をもらった人は言った本人にその評価尺度を聞いてみよう。案外感覚的なものだから、気にするまでもない発言なのかもしれない。そして、自分が「○○力」が低いと感じたら、その力を定義し、さらにはそれを構成する行動の段階に分解してみよう。そうすれば、自分は何ができるのか、何が苦手なのかが見えてくる。こういった思考習慣を取り入れてから、自分は他人からの評価をあまり気にしなくなったし、安易に○○が低いと他人に言わなくなった。

日本再発見

明治維新を経て西洋的価値観が一気に日本に流入した。民主主義("democracy")もそのうちの一つであった。民衆による統治という民主主義の概念は、天皇による統治を国体とする日本の歴史とは対極に位置しているように見える。しかし、民主主義と親和性を持つ価値観は日本の歴史の中からいくつも見出すことができる。

 

その一つが聖徳太子の十七条の憲法である。その一条には「和を以て貴しとなす」とある。ここでは、おたがいに仲良く、調和することが大事だと説いている。その際に、不満があればお互いに言い合い、理解しあうことが大事だとしている。つまり、話し合いを通じて合意形成を図るという民主主義的価値観を1400年以上前の日本の為政者は有していたのだ。

 

また「和歌の前の平等」という言葉がある。渡部昇一上智大名誉教授によれば、「歌を詠む場というのは身分がない」というのだ。例えば、『万葉集』には防人歌など東国の人々の歌が多く掲載されている。ここから、良い歌であれば身分を問わず、平等に取り扱う理念があったことが読み取れる。これは、句会などが身分や階級にこだわらずに行われたことからも、伝統として生き続けていることがわかる。民主主義における重要な価値観である「法の下の平等」が実現するのは日本国憲法を待たなければならなかった。しかし、「芸術の下の平等」は奈良時代から連綿と受け継がれていたのである。

 

このように、日本には民主主義と親和性を持つ価値観が古来より受け継がれてきた。明治時代になって西洋から完全に輸入したのではなく、実は自前の「民主主義」を持っていた。ステレオタイプで歴史を見るのではなく、いつもと異なる視点から眺めることで新たな日本の姿が現れたのである。

 

 

 

 

政治参加の意義

 

 

ルソーの指摘

フランス革命に大きく影響を与えたルソーは次のような言葉を残している。

イギリスの人民はみずからを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。 自由なのは、議会の議員を選挙する間であり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷 であり、無に等しいものになる」。(ルソー(2008年)『社会契約論』中山元訳、光文 社、192頁)

ここでルソーは、選挙期間以外において人民は奴隷であると論じている。そもそも選挙とは代表者を選出することであり、代表者とは人民、すなわち主権者の代わりに政治を行う者を指す。代表者の権力基盤の正統性は人民によって選ばれたことであり、その政治には選んだ人民の意向が反映されなければならない。しかし、代表者は往々にして民意に反する政治を行うことがある。

例えば、経団連など利益団体の便宜を図る利益政治が行われたり、官僚による政策決定への裁量権が増大したりする場合である。こうした問題は利益集団自由主義(ロウィ)や行政国家の肥大化によって生じる問題であり、民意ではなく利益集団や官僚の意向が政治に反映されているのである。

伝統的な政治参加

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だからこそ、丸山眞男が言うように代表に対して常に監視し、抑制することが必要なのである。監視・抑制によって権力者の行動は制限される。そのための方法が政治参加である。例えば、現行の制度下では、議員へのロビイング活動、地方自治体への請願、住民投票、デモや集会などが認められている。こうした活動によって代表者に絶えず揺さぶりをかけ、代表者に「自分が監視されている」という意識を持たせることで、代表者は民意に沿った政治を行うようになる。かつての公民権運動のような奴隷解放運動を行うことではじめて、奴隷は奴隷でなくなる契機を得られるのだ。

 

試作段階の政治参加

こうした制度上認められた政治参加に加えて、制度としては試行段階の手法もある。ハーバーマスやディーネルらの唱える討議デモクラシーだ。これは、市民自らが政策決定や法の制定過程へ参加する試みである。ここでは、市民は政策の立案ではなく問題の発見などに役割を限定される。というのも、政策の立案は代表者や官僚が行うことであり、重要なことは政策の前提としての問題を市民が十分に討議することで、代表者たちはその問題に対する政策決定や法の制定をする上で正統性を得られるという点である。この過程で市民は学習し、民主主義の担い手として成長していく。したがって、討議デモクラシーは人民を奴隷から貴族へと知的に洗練させる方法でもあるのだ。

現状認められている手法は過去の試行錯誤の積み重ねの上にある。社会が変化すれば、妥当な参加方法も変化するだろう。討議デモクラシーも試行段階とはいえ、今後の政治参加の在り方を大きく変えるかもしれない。ただし忘れてはならないことは、民主主義を不断に民主化していく、という目的のための手段である、ということだ。それを忘れてしまえば、手段の目的化となってしまう。

柳田国男の教育論を現代風に解釈してみた

 

 

民俗学者柳田国男は、戦後に新設された社会科の目標を「一人前の選挙民をつくること」とした(西内裕一「『柳田社会科』の目標と内容についての考察」)。

一人前の定義

ここでいう一人前とは、手紙が書ける程度の平凡な能力、そして新聞が読め、世間の動向を把握できることのできる人間である。その中でも柳田が特に重視したのは、新聞を批判的に読むことのできる能力である。したがって、社会科の目標の一つは、当然新聞に書いてある事象を批判する価値尺度を内在化した人間を作ることが目標となる。柳田はこうした能力を義務教育終了までに身につけさせるべきだと考えた。

 新聞を読むことの現代的意味合い

上記のうちの新聞を批判的に読むということを、現代的に解釈すれば、新聞だけでなく、テレビのニュースやインターネット上のニュースサイトも含むだろう。私はニュースを考える最高のツールは新聞だと思うので、ここでは新聞にのみ焦点を当てて考えてみたい。というのは、新聞には政治や経済、社会、国際問題など幅広い範囲の「最新」の情報が記載されている。もちろん新聞社によって記載されている記事に違いはあれども、大まかな世の中の流れを理解するツールとして最適なのだ。

現状は

さて、考察に戻ろう。柳田が上記のことを述べてから50年以上が経過している。しかし、周りを見渡してみると、新聞を批判的に読むことはおろか、新聞を読むことすら放棄している学生が非常に多いようだ。マイナビの調査によれば、大学生の新聞離れは著しい(https://gakumado.mynavi.jp/gmd/articles/38012)。いわんや、高校生や中学生は読む習慣すらないものがほとんどなのではないだろうか。こうした状況から鑑みるに、柳田のいう一人前の選挙民は少なくとも義務教育終了段階では達成されていない。

 その背景

思うに、それは新聞の読み方や「批判的な」読み方を学校で教わっていないことに起因している。すなわち、教育業界がある意味で「サボって」きたのだ。

これからできること

社会科教師としてできることは、1つには新聞を教材として活用して、生徒が新聞に触れる機会を作ることがあげられる。2つには生徒が新聞に目を通す習慣を持つような教育活動をすることである。たとえば、新聞の読み比べや導入教材としての活用、また「気になる」記事を毎回発表させるなどの工夫があるだろう。そのためには教師が率先して情報収集する必要がある。

ここまで新聞教育を推してきた。しかし若干の問題がある。

 

 新聞離れは確かに進んでいる

確かに今の社会で新聞を読む者は「量的」には減少している。しかし、それは一人前の選挙民が減っていることを意味するわけではない。なぜならば、柳田にとって、新聞とは個人が世間との接点を持つための手段であり、それは終戦後における有力なツールだったにすぎない。現代において世間との接点を保つ手段としては、新聞に限らず、ネットニュースやSNS、2ちゃんねるなどのネット掲示板など多くの手段がある。例えば、今年の1月に大統領に就任したアメリカのトランプ大統領は既存のマスメディアではなくTwitterを中心に情報発信をしており、場合によっては、個人が自分で情報収集したほうが新聞よりも早く情報を手に入れられる時もある。今日では、新聞やニュースサイトが個人の発信した情報を報道で活用する例も散見される。

 大事なことは得た情報をどうするか

そして、重要なのはそうしたツールを通じて得た情報を批判的に吟味できるかどうかである。私が前回の記事で文部科学省教育機関の怠慢として批判したかった点は、この知的営為を学校で教えてこなかった点である。そうした怠慢の結果が、選挙において如実に表れていると思う。例えば、2005年の衆議院議員総選挙において、自民党郵政民営化を単一争点として選挙に臨んだ。結果として、自民党は多数の議席を確保し、郵政民営化を断行した。しかし、その時、多くの有権者はどの程度郵政民営化について理解していただろうか。民営化によって市場経済に対応しなければならなくなるのだから、採算の合わない僻地の住民の生活がどうなるのか、当の本人たちは考えたのだろうか。莫大な郵便貯金がどのように使われるか、考えた上での投票だったのだろうか。情報を吟味することなく投票へ向かっていたのではないだろうか。そう思わずにはいられないのだ。

ただ、あまり表には出ないだけで、情報を摂取し批判的に吟味した人々もいただろう。こうした知的態度を持つ人は、ニュースのコメント欄やネットの掲示板、またSNSなどで散見できる。しかし、大規模な社会的事象の結果から大多数の人間がどのような態度をもっているか類推することもできる。その点、柳田の期待した「一人前の選挙民」はまだ有権者の多数派とはなっていないようだ。放置されてきた有権者の質を高めることこそが、教育界、特に社会科教育に課せられた使命だと思う。

安定した政治のための工夫~アメリカ大統領選挙制度の特徴~

 

 

アメリカでは大統領選挙の真最中である。ドナルド・トランプ氏が共和党の正式候補となり、民主党の正式候補となったヒラリー・クリントン氏と激戦を繰り広げている。世界最強国家の首長を決定するだけあって、アメリカ国内だけでなく世界中から、次のリーダーが誰になるのか注目を集めている。そして、太平洋を隔てた日本でもリーダーの選出方法に関する議論がなされている。それが首相公選制である。

 首相公選制とは

首相公選制とは、行政府の長である内閣総理大臣を国民が直接選出する制度である。小泉元首相や橋下徹大阪市長が導入を盛んに主張したことで、国民的議論に火が付いたように思う。賛成意見の多くは、より民意を反映するために国民が首相を直接選ぶべきというものだ。一方、反対意見もあり、候補者が人気取りに終始し、十分な政策論議がなされないといった声もある。実際、中南米では大統領などが独裁者と化し、政治が腐敗してしまった国もある。

 アメリカの政治が安定している背景

権力分立

しかし、国家元首を直接選ぶアメリカでは大きな混乱などなく、政治状況も安定しているように見える。思うに、アメリカの政治状況が安定しているのには、制度的な背景があるのではないか。一つには権力分立が徹底しているという点、もう一つは選挙期間が約一年間とかなり長い点だ。

権力分立の徹底とは、立法府・行政府・司法府の三権で厳しい監視と抑止が相互になされているということである。大統領は国民の直接選挙を通じて選出されるため、民主的正当性が強く、強大な権力がある。例えば、議会に対する拒否権や条約締結権を保持している。しかし、議会にも強い権限があり、大統領が結んだ条約締結の同意権や弾劾裁判を設置することで非行のあった大統領を罷免することができる。このように大統領が独裁化しないような制度的工夫がなされており、また、裁判所は違憲立法審査権を持っているため、立法権司法権に対する司法権の優位が制度化されている。三権が相互に抑制しあうことで、いずれかの機関が独裁化しないようになっている。

 選挙期間の長さ

選挙期間の長さも政治状況の安定に寄与している。アメリカの大統領選挙は約一年間かけて行われる。まず、政党ごとの候補者争いである予備選挙が行われる。予備選挙には7,8か月ほどの期間を要し、政党ごとの候補者が決定した後に、各政党の候補者同士が争う本選挙が行われる。本選挙は二か月ほどかけて行われる。

こうした選挙期間の長さは、有権者が候補者を認知し、また候補者について学ぶ時間を提供している。さらには、予備選挙と本選挙に分かれているために、有権者が節目ごとに候補者選びを意識する制度的工夫がなされている。選挙期間の長さによって有権者は候補者について十分に学ぶことができ、十分な政策論議ができ、一時の熱情ではなく冷静に候補者を選ぶことができる。そして、段階ごとの選挙方式によって、有権者が選挙に興味を失わない工夫がなされている。長い時間をかけて選ばれた候補者は民意をより反映しているのだ。

巧みな制度設計

厳格な権力分立と長期間の大統領選挙の存在が、アメリカに安定した政治状況をもたらしている。建国者の巧みな制度設計によって、アメリカが国家元首を直接選出する方法を採用していても、大きな混乱がないといえよう。さて、次の大統領は誰なのか、遠い日本に住む私も興味津々である。

北海道新幹線から考える資本主義

 

 

北海道新幹線の開業

北海道新幹線が3月26日に開業してから3週間が経過した。整備計画が立てられてから実に43年が経過しており、まさに日本中を新幹線で結びつけるという「悲願」が達成された事業だといえる。しかし、前評判ほど業績は良くないようだ。開業2週間時点での平均乗車率は27%を記録しており、JR北海道によれば「今後3年間の収支見通しは約48億円の赤字」である。

北海道新幹線が赤字を出している背景

こうした事態は、人々が新たな移動手段を求めていないこと、とりわけ北海道への新たな移動手段を求めていないということを意味している。消費者は既存の手段で満足しており、もはや開拓する市場がほとんどないのである。
市場はモノとモノを交換する場であり、モノの中には財だけでなくサービスも含まれる。そうしたモノの交換は必要性から生じる。例えば、人々が移動において「速さ」を求めるなら、自動車より電車、電車よりも飛行機というように、より早く移動できるサービスを求める。電車だけを見ても、普通列車よりも快速列車、快速列車よりも新幹線、新幹線よりもリニアモーターカーというようにより速度の速い移動手段を利用するだろう。ましてや飛行機であれば、どれだけ時間を節約できるか。

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北海道新幹線の価値はどこにあるのだろうか

翻って見ると、北海道新幹線は東京-函館間で飛行機による移動の1.5倍の時間がかかるため、既存の移動手段に対して「速さ」という点で劣っている。価格という点から見ても、特段安いわけではない。したがって、既存の移動手段と比べて市場価値があるとは言えないだろう。

暴走列車「資本主義号」

 必要性がないにもかかわらず、市場ではどんどん新たなモノが作り続けられる。そこには、人々が必要性に駆られて行う交易という市場本来の姿はない。需要のないところに需要を作り出そうとして失敗した。まさに資本主義の暴走という事態が生じているのだ。
資本主義は市場の拡大をその原理としている。つまり、資本を集積し、その資本を元手に新たな市場を開拓することで、さらなる資本の集積を行うのである。カネを投資することで、さらなるカネを呼び寄せ、そしてまた投資するという拡大を基本とするシステムなのだ。

しかし、北海道新幹線の乗車率が3分の1にも満たないという事実は、拡大するべき市場が既につき始めていることを物語っている。あるいは適切な需要を考慮せずに、「悲願達成」だけのために投資してしまったのだろうか。そうだとしたら、それは社会主義経済における計画経済と変わらない。これだけ買うだろうから、これだけ作ってしまおうと。とするなら、供給過多になるのもうなづけるだろう。

国富が減少し、さらには資源の有限性が世界中で叫ばれている。拡大を続ける資本主義も、それを支える旺盛な需要と無限の資源がないともはやシステムを維持することはかなわない。そろそろ日本における資本主義は限界を迎えつつあるのではないだろうか。ニュースを見て、そんなことを考えた。

共同体を作る宗教

 

 

最近、「絆」や「コミュニケーション」、「コミュニティ―」といった言葉をよく耳にする。なぜ、今になって絆やコミュニケーションといったことが注目されるようになったのかを、宗教をキーワードに考えてみたい。

 宗教共同体

宗教とは、人々の共通の価値観を提供するものである。特定の価値観を共有することで、人々は共同体を形成する。すなわち、宗教共同体である。たとえば、中世のヨーロッパではキリスト教が広く普及し、人々の価値観から生活までをも規定していた。共同体の頂点に立っていたのがローマ教皇であり、彼を中心として西ヨーロッパにはキリスト教に基づく宗教共同体が形成されていた。また、イスラーム教においては、その教えに基づく宗教共同体のことをウンマと呼び、人々はウンマにおいてイスラームの教えに従って生活している。ただし、コーランに書かれているままに従うのではなく、現代的に解釈されたイスラーム法に従っている。だから現代でもイスラム法学者は指導的地位にある。では、そうした宗教共同体は日本にあるのだろうか。

 日本における宗教共同体

かつての日本では、人々の生活の領域は小さな共同体に限定されていた。つまり、農村や漁村などの村社会の内部で多くの人々は生活していたのである。人々は互いに面識のある間柄において生活していた。そうした人々によって形成されたのが、「世間」である。

 世間とは

辞書を見ると、世間とは「社会」や「自分の活動・交際の範囲」と定義されている。すなわち、世間とは人々の集合体であり、その集合体はある一定の範囲に限定される。したがって、地域性を持った社会が世間であり、たとえばご近所付き合いや町内会、自治会などが該当するだろう。

世間は社会であると同時に宗教でもある。なぜなら、世間は人々の結びつきの上に作られるものであり、一方で人々に共通の価値観を提供するからである。たとえば、村では村掟という村のルールが作られ、それに反したものは村八分という形で排除された。つまり、共同体を構成するものは村掟という共通の価値観に従うことを要求されるのである。また、「世間様に顔向けできない」という言葉があるように、「世間」が人々の行動の規範となっていたのである。人々の行動を律するという点において、「世間」は宗教的な側面を有しているといえよう。

 現代における変化

しかし、インターネットの普及や都市化によって地域社会における交流がめっきり減少してしまった。つまり、誰かと協力して生きる必要性がなく、娯楽が多様化し、情報を得る手段が広く普及したことによって、社会の個人化が進行し、その結果として地域社会が消滅したのである。それは地域社会における「世間」の消滅を意味し、同時に人々の行動を律するものがなくなったことも意味する。「世間」という宗教がなくなったことで、人々は行動の野放図的な自由を手にしたのである。

世間の消滅がもたらしたもの

「世間」という宗教がなくなったことで、人々は「自由」になった。しかし、その消滅が招いたものは人々の地域社会からの孤立であり、また行動規範たる道徳の崩壊という帰結だったと思う。そうした文脈の中に、人々の紐帯である「絆」だとか、紐帯を作り上げる「コミュニケーション」、そしてその日常的な空間である「コミュニティー」が今の時代になって注目を集めているのだと思う。

社会主義という宗教

歴史的に見れば、宗教は貧困や差別などの社会矛盾が蔓延しているときに拡大してきた。イスラム教やキリスト教、仏教の世界三大宗教ですら例外ではない。宗教は差別や格差などが社会に蔓延しているときに勢力を伸ばしてきたのである。

 三大宗教について

イスラム

イスラム教はアラビア半島の南東部にあるメッカの商人ムハンマドが起こした宗教であり、当時その一帯はインド洋交易の中継地点として大いに栄えていた。莫大な富が都市に流れる一方で、貧富の差が拡大し、貧困が蔓延していた。そうした中で、平等な社会の理想を謳ったムハンマド貧困層を中心に支持を拡大していった。この宗教の特徴は、稼ぐことを奨励した点にある。だから商人などに受け入れられ、一方で「喜捨」という貧困層への寄付行為も奨励していたので、貧困層にも受け入れられたのである。

 キリスト教

キリスト教は、選民思想を持つユダヤ教に対して人々の平等を謳った。神の前での人々の平等という考えは、身分差別や貧困に苦しむ人々にとっての生活の支えとなり、世界中に拡大していった。

 仏教

仏教は、人間の価値は生まれや身分ではなく自らの行いによって決まるという主張を持つ。当時のインドでは、バラモン教に基づいた身分制度が厳格に敷かれ、その下で「不可触民」と呼ばれる階層の人々は厳しい差別を受けていた。そうした身分差別に苦しむ人々は人間の平等を説く仏教を受け入れていった。仏教徒はいったんインド国内では消滅するが、やがて20世紀になるとアンベードカルという不可触民出身の人物が、ヒンドゥー教の身分差別に抗議する意味で、多くの不可触民と共に仏教に改宗した。

 宗教の機能

このように、宗教は社会矛盾に苦しむ人々を救済し、平等な社会を目指す思想として広まった。その際、宗教は人々の心の拠り所となって彼らを支えた。つまり、宗教とは苦しい現実を生きる上で、「自分が救われる」という希望を人々に抱かせるものである。だからこそ、現実の社会矛盾に苦しむ人々に宗教は受け容れられたのである。その点において、宗教は社会矛盾を是正する調整機能を果たしていたといえる。

しかし、近代以降は世俗化が進行し、現代では社会における宗教の影響力はますます弱まってきている。そして世俗化と共に発達していったのが資本主義である。資本主義の黎明期における格差の拡大はすさまじく、当時の労働者は一日の食事すら満足に取れない者もいた。人々が安価な労働力として酷使され、十分な賃金が払われず、社会的な格差が拡大する中で、そうした社会矛盾を調整するものとして格差を是正し平等な社会の実現を謳ったのは、社会主義思想であった。すなわち、資本主義のもたらす格差を是正し、人々の平等を実現しようという考えである。

 社会主義:現代における新たな宗教か

翻って、格差と貧困の問題に悩まされている昨今、世俗化が進み、宗教が非科学的なものと退けられている中で、社会主義がにわかに注目を浴びていることは興味深い。欧州で「社会民主主義」が第三の道として注目を浴び、貧困対策としての社会福祉政策の拡充を求める声は、資本主義的というよりも社会主義的である。超格差社会といわれている現在のアメリカでも社会主義が拡大しつつある。

社会主義は、産業革命がヨーロッパで進展していく中で誕生したが、社会全体が向上している間は顧みられることがなかった。しかし、貧困に苦しみ、社会に不満を持つ人々が増えてきた昨今、彼らにとって社会主義は大いに魅力的な思想なのだろう。宗教は社会矛盾が蔓延しているときに拡大する。ここに宗教と社会主義の共通性が見られるのである。そうした視点から見れば、社会主義も宗教の1つといえるのではないだろうか。