新卒教員の教科書

私立高校一年目。『新卒教員としてのオリジナルテキスト』をつくろうという試みでブログを書いてます。社会科のこととかビビッときた本の書評とか日常生活のこととか。

MENU

苦しむなかれ、中身のない言葉に。

コミュ力全盛期

f:id:europesan:20180831155553p:plain

「コミュニケーション能力」、いわゆる「コミュ力」という言葉が幅を利かせている。お笑い芸人などの当意即妙な返しや話の面白さが過度に理想化され、「コミュ力が高い・低い」という評価に一喜一憂する人が増えたように思う。かくいう私もそういった評価をとても気にする性分だった。

共通了解を作ろう

しかし、言われた人物が、低評価を気にしようが、「コミュ力」を改善することは不可能である。というのも、「コミュ力」という言葉自体が極めてあいまいな言葉であり、感覚的に評価がなされているからである。つまり、評価尺度が明確に言語化・段階化されておらず、そのため共通の基準がないままに評価がなされているのである。

たとえば、コミュ力を「他者と適切に意思疎通する能力」と定義すれば、いくつかの踏むべき行動の段階が見えてくる。まず「自分の思いや考えを言語化できること」が求められる。さらには「それを他者が理解できるよう順序立てて説明できること」、「相手の気持ちや思いを否定せずに、共感の態度を示すことができる」というように細分化をすることができる。逆に言えば、目標もない状態で、どうやってそれ達成し、さらには如何にして達成できたと評価できるだろうか。定義がない状態では不可能なのである。

言葉の持つ影響力

もしも、こうした定義がなされずに、自分が信頼する人物から「コミュ力が低い」と言われたとしよう。その言葉は言われた当人にとっては大きな衝撃を与えるだろう。「コミュ力」がもてはやされる今の社会で、自分の「コミュ力」が低いという評価は時に強迫観念のようにまとわりつくかもしれない。しかし、改善する手立てはない。なぜなら、「コミュ力の構成要素の中でも、何ができないのか」が明確でないため、具体的な改善策を立てられないからである。

昨今の「○○力」を安易に使う風潮には強い憤りを覚える。定義もされず、何が悪いのか感覚的に評価される。評価される人物にとってはたまったものではない。もちろん日常会話や世間話ではさほど気にする必要はないのかもしれない。しかし、コミュニケーションは礼儀やマナー、言語など互いが共有する媒体を通じてなされる。評価をする立場の人は「○○力」が何なのかをしっかりと定義し、さらには何ができて何ができていないのか、その構成要素を明確にしてほしい。それが相手に対して真に思いやりあるコミュニケーションである。

 解決策

逆に、「○○力」が低いという評価をもらった人は言った本人にその評価尺度を聞いてみよう。案外感覚的なものだから、気にするまでもない発言なのかもしれない。そして、自分が「○○力」が低いと感じたら、その力を定義し、さらにはそれを構成する行動の段階に分解してみよう。そうすれば、自分は何ができるのか、何が苦手なのかが見えてくる。こういった思考習慣を取り入れてから、自分は他人からの評価をあまり気にしなくなったし、安易に○○が低いと他人に言わなくなった。