実践する思考

教師としての日々の工夫・政治学徒の端くれとしての社会問題への所感など…

大量廃棄問題に見る資本主義

縁起は良いが、需要はさほどなかったようである。節分の日に店頭に並んだ恵方巻は大部分が売れ残り、大量に廃棄されている。しかし、この問題は恵方巻に限ったものではない。

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日本の年間食品廃棄量は2800万トンという。これは世界の食糧援助料の320万トンを遥かに超える量である。さて、こうしたニュースに触れて思い浮かぶのが資源の有限性である。エネルギー資源にしろ、海洋資源にしろ、この世にある資源は限られている。

 

そうした有限性と対極にあるのが資本主義である。資本主義とは資本が無限に自己増殖する過程を指す。つまり、カネを増やすためにどんどんカネを使うべしということだ。たとえば、もうけを増やすために工場建設にどんどん投資したり、さらなる販路開拓のために鉄道を敷設したりすることだ。

 

しかし、こうした供給の拡大は需要が拡大してこそ意味を持つ。北海道新幹線の乗降者数の少なさや恵方巻の大量廃棄は需要を度外視した供給が背景にある。人口が増加するうちは企業も成長路線を続けることができた。だが、人口減少や個人のニーズが多様化した現代においては「必要でもないもの」を従来の規模のように売ることは非常に難しいだろう。

 

必要でないものをどんどん売る。その結果、有限な資源が消費されずに廃棄される。資本主義の下では、儲けることが一義的であり、適切な資源利用は考慮されない。将来の世代や地球環境の行く末を考えれば、資本主義は岐路に立っているのかもしれない。ここで考えのヒントとして、超エコ社会といわれた江戸時代の村の様子を見てみたい。

 

江戸時代、村では百姓による自治が行われていた。そこでは、様々なルールが作られ、彼らの行動を規定していた。たとえば、入会地や海の利用に関するルールがある。海の村ではノリやコンブ、アワビ、サザエなどは漁の解禁日が決められていた。また、山間の村では入会地での鋸や鎌の使用が禁止された。鋸で木材が駆り出されれば山の資源がなくなり、鎌でこれから成長する若木が伐られて雑木まで根絶やしになってしまうからである(田中圭一『百姓の江戸時代』)。

 

こうしたルールは資源保護の観点から作られた。すなわち、今後も生産し続けられるような生産関係を基にした秩序が生まれていたのである。資源の有限性が強く意識された時代だったからこそ、循環社会とでもいうような超エコ社会が生まれたのだろう。

 

もちろん彼ら農民が先を見据えたのは、今後の生活がかかっていたからである。翻って、今年は「持続可能な発展」が国連環境開発会議で謳われてから26年となる。果たして資源保護と資本主義は共存するのだろうか。そのヒントがエコ社会といわれた江戸時代にあるのかもしれない。

 

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