Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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説明責任について

 

 

政治学において説明責任という言葉がある。説明責任はアカウンタビリティーといい、アカウンティング(説明)とレスポンシビリティー(責任)を合わせた造語である。この言葉は元々アメリカで生まれたものであり、アメリカ大使館によれば次のように定義されている。

政府の説明責任とは、公選・非公選を問わず公職者には、自らの決定と行動を市民に対して説明する義務がある、ということを意味する。政府の説明責任を実現するため、各種の政治的・法的・行政的な仕組みが使われる。これらの仕組みは、腐敗を防止し、公職者が市民の声に反応できる、身近な存在であり続けることを目的として作られたものである。このような仕組みがなければ、腐敗が蔓延するかもしれない。

 

民主主義における説明責任

代表制民主主義の下では、公職に就いている者(政治家)は委任者(国民)に対して説明責任をもつ。どのような法が、どのような利害関係を持って、どのような過程を通じて作成されたかということについての情報は、国民がより適切な判断・評価を行う上での材料となる。もしも不正が行われていても、情報が明るみになっていれば、国民は不正を糾すことができる。

最近になって、日本でもアカウンタビリティーを重視する潮流が生じている。東京都の小池知事が都政の透明性を重視すると謳ったり、森友学園問題を巡って官邸に対する忖度があったのではないかとメディアが騒ぎ立てたりするようなことが起きているところからも、社会的な潮流として説明責任に敏感になっている人が多くなったのではないかと思う。

確かに民主主義を十全なレベルに保つには国民の知的水準が一定のレベルにあることが必要である。そのために説明責任によって情報が公開されることが不可欠だ。しかし、それはあくまでも代表ー委任関係において重視されるものであり、他の領域においても重要だとは限らない。社会的に敏感な人が多いというのは、裏を返せば他の領域においても説明責任を求める人がいる可能性を示唆している。では、教育における説明責任はどのような位置づけなのだろうか。

教育における説明責任

というわけで教育における説明責任の必要性について考えたい。なぜ教育かといえば、説明責任は権力関係の下で発生するからだ。国民主権の下では国民が国政の最終決定権を有するとされてはいるが、実際は代表者と委任者の間には厳然たる権力関係がある。それは教育においても同様で、教師と生徒(学生・児童)の間にも権力関係はある。しかし、現実に妥協するのではなく、理想は目指すことに意義がある。民主主義社会の一員を育てることが現下の教育政策の目標ならば、幼少期から民主主義に親和的な価値観を育んでいく必要性があろう。

結論として、教育における説明責任は最低限必要である。教育とはある資質・能力を養うことであり、それゆえ獲得できる資質・能力というゴールに関する説明責任は不可欠だと思う。もし最終目標に関する説明がなければ、当然途中経過もわからず、何ができるようになったか、何ができないのかわからない。それはモチベーションを大きく削いでしまうし、教師に対する不信感をもたらしてしまう。一方で、あらゆる活動に説明責任を付随させても、そのコストは相当なものとなるし、時間制約上非常に困難だろう。だから、生徒が最終的に何ができるようになっているかを教師はきちんと説明する必要がある。

ただし、説明責任は教師が果たすべき責任のうち微々たるものである。教師が重きを置くべきは評価である。つまり、生徒が「何ができるようになったか」「何ができないのか」ということを逐次評価することである。そのためにも教師は目標を設定し、どういうステップがあるかを細分化して把握することが必要である。

ただし、どのようなことができるかが分かっても、自分が現在どの段階にいるのかということは中々わからない。そこで教師が適切な評価をすれば、何ができて、何ができないか生徒は理解できる。それがあるからこそ、現状の問題点を改善でき、それを修正すればより自分を高められるというモチベーションにもつながる。できることの積み重ねは小さいながらも成功体験となる。それは自信につながり、その自信の源を作ったという意味で教師に対する信頼が生じる。

ある能力を獲得できるようになるという将来への期待をもち、自分が着実に成長しているという実感を持てるからこそ、生徒は学ぶのである。だからこそ、説明責任に無駄な労力を割くべきではない。教師は不断に生徒を評価し、その努力に寄り添うべきなのだ。果たすべきは努力する姿勢に寄り添い続ける責任である。生徒ができるようになるまでとことん応援しよう。

説明責任よりも考えるべきことがある

最後に教育における説明責任の必要性の問題を考えてみたい。確かに民主主義社会の一員を育むために、幼少期から説明責任が「当たり前」であることはその目的の実現に貢献するかもしれない。しかし、教育という営みは本来的に権力的であり、なにがしかの価値観を育むためには一定の期間、盲目的に提示された課題と向き合うことが重要なのだ。そうして身についた価値観を判断基準として批判的思考や意思決定能力を養う方が自律した個人の育成に資するだろう。したがって、教育において最低限の説明責任は必要ではあるが、民主主義社会の成員を育む上ではそこまで重要ではないと思う。

 

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