夏の暑さはどこへやら。
もうすぐ10月になる。高校3年生は受験勉強や就職試験に忙しい時期だろう。
生徒たちを見ていると大学受験の頃の思い出が頭をよぎる。
あの時期は気が付けば参考書を開いていた。
さて僕が担当するクラスはほぼ全ての生徒がAO推薦や指定校推薦で進路を決める。そのためクラスの中にちらほら進路が決まる者も出始めた。
そうした中で最近、生徒の様子に変化が生じている。
夏休み前には積極的に発言していた生徒たちが授業に寝るようになった。
なぜだろう。
生徒に聞いたら「もう成績決まっちゃってますからね~」とのこと。
「夏休み前のハツラツさの裏には狙いがあったのか」
「インセンティブのためにやっていたのか」
生徒の生の声に少しびっくりしたものの、自分の高校時代にも思い当たる節があった。
そういえば自分も苦手な教科はそんなスタンスで受けていたし、この時期は内職で受験勉強していた。
インセンティブが生徒を動かすんだな~と思ったものの、授業は受けてほしい。
何か方法はないかと本を漁っているうちにある概念を見つけた。
動機づけである。
2つの動機づけ
勉強する動機は2種類に分けられる。外発的動機づけと内発的動機づけだ。
外発的動機づけ
外発的動機づけは、勉強自体の楽しさではなくて、勉強した結果得られる報酬や賞罰によって引き起こされるものだ。
たとえば「テストで100点取ったらおもちゃを買ってあげる!」というエサをつるしたり、「大卒の資格がほしいから大学受験を頑張る」といった目標のために勉強を頑張ったりと、勉強は目的ではなく、あくまでも手段として位置付けられている。
内発的動機づけ
一方で内発的動機付けは、勉強する内容や活動そのものから得られる楽しさによって引き起こされる。
「歴史小説を読んでいたら歴史上の人物が好きになって調べるようになった」
「図鑑を見ていたら恐竜に興味を持つようになったので、化石を取りに近くの河原に行った」
純粋な学ぶ楽しさから勉強に向かうのが、このケースである。
分析してみると
その生徒たちは外発的動機付けで動いていた。
大学入試を控え、それに必要な成績のために授業を受けていたのである。そういえば授業の初めに「この教科が嫌いな人はどれくらいいる?」と聞いたら、半数以上が手を挙げたのだから、当然といえば当然だ。
目標達成のために嫌いな教科も我慢して受ける忍耐力の強さには感服する。
でも、教師としては教科自体の面白さを伝えられなかったことに悔しさを感じる。
目的が達成されて、授業が自分にとって価値を持たなくなれば、そこで学びは終わってしまうのだ。
「ここはテストに出やすいよ~」とか「これを知れば〇〇に役に立つよ」と安易に外発的動機づけに頼っていた自分をぶん殴りたい。
2500年前から学びの本質は変わらない
論語の教え
これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
訳:あることを知っている人は、それを好きな人にはかなわない。あることが好きな人は、それを楽しんでいる人にはかなわない。
好きだからこそ、頑張ろうと思える。さらに言えば楽しいからこそ、物事は続けられる。それは勉強だけでなく、趣味や仕事でも同じだろう。
楽しいという感覚は勉強において無敵なのだ。
2500年前に書かれた論語は現代の僕らに教えてくれる、学びに向かうには内発的動機づけがとても重要なのだと。
父の教え
僕はド文系だ。特に理科はとても苦手だった。でも、地学は大好きだ。それは父の教育に由来する。
幼少期、父は休日に僕を河原や山に連れて行ってくれた。そこは学びの宝庫だった。
石を割れば三葉虫の化石が出てきたり、山にキャンプに行けば夜空を見て星座を見たりと、小さいころに自然に対する感受性が育まれた。
父の偉大なところは、興味があれば調べられるように、図鑑を家に買い揃えていたところだと思う。実際に見たものを図鑑で調べたり、逆に図鑑で見たものを実際に探しに行ったり、その頃は好奇心の赴くままに学んでいた。
何か目標を立てて学ぶのではなく、利害を超えて純粋な好奇心から学んでいた時期があった。
学校教育の難しさ
学校教育は一斉教育が基本だ。法律で受ける教科も決まっている。生徒が選ぶ余地はほとんどない。
だから生徒にどんな動機づけをさせるかがとても重要になる。
生徒は強制的に、つまりムリヤリ学習空間へと放り込まれる。
だから、最初は「これを勉強すると〇〇に役に立つよ」とか「こういうスキルが身につくよ」といった外発的動機づけでモチベーションを奮わせるしかない。
彼らにとって価値のあるものを提示して動かせる。
そうした強制の過程で、「わかる楽しさ」や「考える楽しさ」を経験してもらいたい。それが僕の理想像だ。
ただ、現実としては外発的動機づけは非常に有効であることは間違いない。生徒の大部分は教科に興味を持たないまま卒業していくのだし、思考力や判断力など教科を超えた能力の育成も教科教育に必要なことなのだから。
事実、僕だって外発的動機づけで動くことが多いのだ。寝ている生徒をどうにかしたい、その一心で「動機づけ」という概念を発見したのだ。
これからのために
生徒の様子の変化に気付けたおかげで分析の視点を得ることができた。
問題を解決したいという外発的動機づけで動いていたとはいえ、今後の指導に活かせる視座を得たのは幸いだった。
これからは安直にエサをぶら下げずに、教科の楽しさも伝えられるようバランスよく授業を構築していきたい。
課題は、どうすれば魅力を伝えられるか、どうすれば楽しさを見出すのか、そうした認知心理学の知見がないことだ。
2つの動機づけは子育てしている方にもとても有益な考え方だと思うので、ぜひ考える際のヒントにしてほしいと思います。では。