AIの進歩は日進月歩である。
最近の変化のスピードを考えると、2029年に起こると言われているシンギュラリティも到来が現実味を帯びている。
ちなみにシンギュラリティとは人工知能が人間の知能を超える段階のことである。
山手線での実験
山手線で自動運転の実験を行われた。
運転手の手を借りることなく、速度調整や停車を機械が自動で行うという実験だ。
自動運転の技術開発は至る所で行われている。
鉄道だけでなくバスやトラック運送業、はたまた乗用車の分野においても開発に多くの資金が投入されており、同時並行的に技術が進歩している。*1
自動運転はまだ開発段階である。
様々な企業が参入しているとはいえ、基本的には資本力のある企業が開発を主導している。しかし、開発が進んでいき、導入費用が安くなれば、多くの企業が導入に踏み切るだろう。
大量導入の分岐点
その分岐点はどこか。
それは人間を雇うコストよりも機械を導入するコストの方が安くなった時だと思う。
経営者にとってみれば2つの点でメリットがある。
1つはコストの点。人件費がかからないのだから、その分が利益となる。
2つ目が労働者は「人」でなくなるということだ。労働者は人間である。人間ということは基本的人権、つまり労働基本権を享有している。だから、労働法で人権を守られている。
しかし、自動化されれば労働の主体は機械となる。機械には人権はない。しかも、昼夜問わず働かせることができる(保守点検や管理の面から実際には難しいだろうが)。
つまり、経営者は労務管理という業務から解放されるのだ。
労務管理も気にしなくてよいし、コストも安い。ならば経営者は導入しないわけがない。
こうした状況はインフラ系に限らず、様々な分野の業界で起こると思う。というのも、多様な分野でAI技術の開発が行われているし、だからこそ導入のコストは逓減していくからだ。
AIが浸透した社会で
そうした社会になった時、人間はどうなるか?
まず大量のリストラは免れないし、そもそも職にありつけない人も出てくるかもしれない。
単純技能は人間ではなく機械にやらせた方が合理的だし、運転という複雑技能ですら機械が代替してしまうため、大抵のスキルが陳腐化してしまうからだ。
(そういえばこの間、銀行に勤める友人が「窓口業務は今後AIが代替してしまう」と話していた。)
さて、話を戻そう。
では、人間に残された道は何だろうか?
それはAIができないことに人間が特化することだ。
AIに何ができるのか、いま議論が盛んになされている。けれども、自分は全体像がよく見えない*2
(偉そうなことを言っているくせに…)
ここではいったん能力については保留しよう。
どうすればよいのだろう
さて、大量解雇社会が訪れたら、どうすべきだろうか?
誰しもが働けるためには、「AIにできない」能力を身につける必要がある。とするならば、学校を出る段階でAIにできない領域の能力を身に付けなければならないだろう。
一方で、リストラされてしまった人はどうなるか?
彼らは技能を持たないがために解雇された。では、技能を身につければいい。ここで重要なことは学びなおしの機会を用意し、さらには再雇用の機会を用意することである。個人が意欲をもって学びなおしをすることは当然だ。だが、社会の側が学びなおした人を報いるようなシステムを構築しなければ、その労力は無に終わる。
AIの浸透は産業構造を変えていくだろう。その構造がどうなるか現状ではわからない。
重要なことは、個人レベルで言えば、AIに代替されない知的能力を身につけること、そして学び直しができるよう文理問わず基本的な知識を持つことだ。基本的な計算式を知らなかったり、読解力がなければ、専門的な分野の勉強のハードルは非常に高くなる。
社会レベルで言えば、学び直しのシステムの構築、再雇用しやすい状況を作ることである。
そして私個人にとって重要なことは、AIにできること/できないことを明らかにすることである。
しかし、あらためて読み返してみると、資本家がすごく有利な社会になってしまうんだなあ。