今日は参議院議員選挙の日だ。
昨今、若者の低い投票率が問題になっている。
そこで、若者に投票に行ってもらうよう様々な働きかけがなされている。
色々と説得がなされているが、選挙に行かないとどうなるか、という視点から表題の件について考えてみたい。
選挙権とは、主権者として位置づけられる国民が国家権力の政治過程に参加することのできる権利である。この権利は民主主義の拡大と軌を一にする権利であって、民主主義に不可欠の権利である。
したがって、民主主義を維持するために、一定程度国民の政治参加を強制する側面がこの権利にはある。
しかし、そもそも選挙権は基本的人権であり、人権というのは、行使するもしないも個人の自由である。だからこそ、本来は投票しなければ「主権者が国政の最終決定者」である原則が揺らいでしまうのだが、人権であるためその行使を強制できないゆえに、冒頭のような低投票率の問題が起こる。
では、なぜ投票しなければ、民主主義が維持できないのか?
それは権利というものの本質に由来する。
少し長くなるが、ここで丸山真男の言葉を引用したい。
学生時代に末広(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって事項を中断しない限り、たんに自分は債務者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。(丸山真男「であることとすること」『日本の思想』154頁)
ここでいう債権も権利である。
権利を有しているからといって、それは行使されなければ効力を発揮しない。そして、権利を持っているということ自体に安心しきって行使をしないでいると、いつの間にか権利自体が失われてしまう。
選挙権も同様である。
選挙には民意の集約という機能がある。自分の意見を政治過程に反映させ、理不尽なルールを代議士に変えてもらう、そういう機能がある。
しかし、権利を行使しなければ、そういう機会を自ら失っていることになる。
そして、権利の不行使が究極的にもたらすのは、民主主義自体の喪失である。
先ほどの引用の続きである。
日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読み取ることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです、これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、もはや最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。(同155頁)
選挙に行くのは権利である。
しかし、ただ持っていることに安心して行使しないでいれば、いつか失うかもしれない。
我々の先祖が血を流し、命を捧げ、苦難の末に勝ち取った権利を、である。
現状の制度に「民意を反映しているのか」という疑問符は確かに付きまとう。
しかし、それでも民主主義だからこそ、我々は自分たちの問題を自分たちで処理することが(建前上でも)できている。
一部の人間が理不尽な命令を国民に突きつける、そんな時代に逆行してはならない。
若者も高齢者も誰しも、すべからく投票に行ってほしいと思う。
それは我々が持っている大切な権利を、これからも子供たちに受け継いでいくためだから。