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「大人のための倫理、政治・経済」というテーマで色々書いてます。政経や倫理の講義、大学(中学)受験、書評、キャリア教育、社会科教育、時事問題、教師の日常などなどを発信してます。

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誰しもが可能性を追求できる社会を-『教育格差』と近代社会の理念-

  

義を見てせざるは勇なきなり

 

論語の一節にある言葉です。格差が拡大し、心を痛めている人も多いかと思います。

けれども、ふと考えてみると、そもそも格差がなぜ悪いのか、望ましくないのか、私は説明できませんでした。

つまり、何が義に値するのかがわからなかったのです。ですから、今回の記事では格差がなぜ望ましくないのかについてまとめています。

 

 

教育格差とは?

松岡亮二先生の『教育格差』がベストセラーになりました。

少し前にはピケティの『21世紀の資本』が世界的に流行し、アメリカでは社会民主主義者のサンダースが人気を博しました。

それだけ格差が社会的注目を集めているわけですが、教育格差について、松岡先生は次のように述べています。

 

この社会に、出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件(生まれ)によって教育機会の格差があるからだ。この機会の多寡は最終学歴に繋がり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり、20代前半でほぼ確定する学歴で、その後の人生が大きく制約される現実が日本にはあるのだ。

…(中略)…生まれ育った家庭と地域によって何者にでもなれる可能性が制限されている「緩やかな身分社会」、それが日本だ。

…(中略)…一人ひとりの無限の可能性という資源を活かさない燃費の悪い非効率な社会だ。(『教育格差』PP.15-16)

 

本書におけるキーワードはSES(Socioeconomic status=社会経済的地位)です。これは、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位のことで、具体的には、世帯収入(経済)、親学歴・文化的所有物と行動(文化)、職業的地位(社会)などの指標を指します。

glancing into the studio process : santa barbara (2008)

 

親が大卒か否か、居住地域が三大都市圏か否かなどによって、子どもに教育格差が存在し、たとえば小学校入学段階で塾や英会話教室などの習い事を初めとした多様な教育の機会に触れ、学習の蓄積がある子と、放任の名の下に教育機会のなかった子との間に既に格差が存在し、それが学年が上がるにつれて拡大していくといいます。

 

学歴社会(学校歴社会)といわれるように、労働市場では学歴を重要な指標として厳格な選別が行われてきました。

つまり、選別は就職活動以前、受験競争から始まっています。

しかし、この競争過程で、生まれによって早くスタートダッシュを切れる子とそうでない子がいる。しかも、時間を重ねるごとにその差は拡大していく。

そして、労働市場の選別を受けた人たちが自分たちの子どもが有利になるように習い事などの「意図的な養育」を行って、さらに格差が再生産されていくわけです。

本人にはどうしようもないところで、人生の可能性が制限されている、まさに「緩やかな身分社会」です。

 

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何が問題か

教育現場と金の結びつきはしばしば批判対象となってきました。

日本では徳川的儒教体制の歴史から文化レベルでお金儲けが忌み嫌われ、「徳育」を重視する日本の学校においてもお金は主な教授の対象とされてはきませんでした。

したがって、学校全体が資本主義の論理から離れて運営され、子どもたちは厳しい資本主義の世界から保護されてきたのです。

 

しかし、子どもたちは学校を出たら、厳しい資本主義社会において、「労働力」として評価されます。緩いコミュニティから一転、厳しい就職活動の洗礼を受けます。

筆者はこうした教育と労働市場の乖離を厳しく批判します。

 

教育の中でどれだけ表面的な平等を取り繕い「夢」を煽ったところで、わたしたちは労働市場において冷徹な評価を受けるということだ。有名な曲の歌詞にあるように、花屋の軒先には様々な種類の花が並んでいて、価値観によってどれが美しいと思うかはここに違うだろうし、ナンバーワンを決めることは野暮だろう。ただ、花屋のたとえをするのであれば、すべての花は商品であり、異なる数字の値札が貼られているのだ。もちろんすべて同じ値段ではない。「個性」や「多様性」をどれだけ主張したところで、100円は100円であり、1万円は1万円なのだ。わたしたち一人ひとりは代替することができない存在であるはずだが、労働市場においては値札が貼られるのだ。この現実が存在しないかのように学校の中で振る舞ったところで、労働市場に出なければならない時期が来る。同様に、反学校的な若者グループの中で独自の価値体系を持ったところで、遅かれ早かれ労働市場における価値基準で評価されることになる。

学校や若者グループの小さな「世界」で「個性」を認めたり「仲間」として連帯したりすることで一時的な居場所を確保し、資本主義の現実から匿ったところで、(死が訪れるまでの外出を禁じるカルトでもない限り)何の解決にもならない。PP.279-280

 

どうして問題といえるのか?

 

次のツイートで問題の核心について述べています。

 

 

 

diego's world

 

近代社会の基本的理念は自由と平等です。

自由とは、他者から干渉を受けずに、あらゆる可能性を考慮した上で選択(意思決定)をする自己決定を根本的な価値とします。しかし、そもそも「自分で選択していない」生まれによって、自分が持てる可能性の数に限りがあるのです。

自由主義的な社会においては職業選択の自由が保障されています。子どもたちはどんな夢も持ち、それを実現する自由が「保障」されています。けれども、実は本人の決めることのできない生まれによって夢が限られ、より良い生まれの人間に有利なような社会が存在するのです。

各人がもつ自由には程度に差があり、それを埋めることができないほど乖離している。身分制を打破したはずの、自由という崇高な理念に基づいた社会で、未だに「緩やかな身分社会」が存在するという事実、すなわち教育格差は近代社会の基本的理念が嘘っぱちでフィクションに過ぎないことを暴露しました。極めて不公正なのです。

 

けれども、そもそも私たちが暮らしている社会は、自由や平等という理念にもとづいて構築されています。

憲法基本的人権が保障されているのは、人々の自由や平等がとても大切だからです。統治権が国会や内閣、裁判所というように三つに分かれているのは、権力が集中することで独裁政治が行われ,人権侵害が起きないようにするためです。

自由が保障されているから、私たちは自分が生きたいように生きることができます。

 

だからこそ、この大切な価値「自由」が形骸化しないように、教育格差は批判され是正されるべきなのです。

 

あらためて、私はリベラリストなのだなと感じました。

私にとっての義とは自由。これは永遠に完成することはありません。なぜなら観念だからです。

だからこそ、その実現のために永久に努力し続けなければならないのです。不公正な社会なら公正な社会にしよう。社会は人工物なのだから。

憲法12条には、権力者を縛る憲法には珍しく、国民に注文をつけている珍しい条文があります。ここでは、自由を守り続ける重要性が述べられています。

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、 これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、 常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

『教育格差』は冷静に現実を見つめ、それを是正するにはどうすればよいのか、考えるきっかけを与えてくれた良書だと思います。

願わくば社会に生きるすべての人の自由に差がなく、誰しもが自分の生きたい人生を歩める社会であってほしいと強く強く思います。

  

 

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