Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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若者「も」選挙に行こう-人類の努力を紡ぐために-

 

今日は参議院議員選挙の日だ。

 

昨今、若者の低い投票率が問題になっている。

そこで、若者に投票に行ってもらうよう様々な働きかけがなされている。

 

色々と説得がなされているが、選挙に行かないとどうなるか、という視点から表題の件について考えてみたい。

 

選挙権とは、主権者として位置づけられる国民が国家権力の政治過程に参加することのできる権利である。この権利は民主主義の拡大と軌を一にする権利であって、民主主義に不可欠の権利である。

したがって、民主主義を維持するために、一定程度国民の政治参加を強制する側面がこの権利にはある。

しかし、そもそも選挙権は基本的人権であり、人権というのは、行使するもしないも個人の自由である。だからこそ、本来は投票しなければ「主権者が国政の最終決定者」である原則が揺らいでしまうのだが、人権であるためその行使を強制できないゆえに、冒頭のような低投票率の問題が起こる。

 

では、なぜ投票しなければ、民主主義が維持できないのか?

 

それは権利というものの本質に由来する。

 

少し長くなるが、ここで丸山真男の言葉を引用したい。

 

学生時代に末広(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって事項を中断しない限り、たんに自分は債務者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。(丸山真男「であることとすること」『日本の思想』154頁)

 

ここでいう債権も権利である。

権利を有しているからといって、それは行使されなければ効力を発揮しない。そして、権利を持っているということ自体に安心しきって行使をしないでいると、いつの間にか権利自体が失われてしまう。

 

選挙権も同様である。

選挙には民意の集約という機能がある。自分の意見を政治過程に反映させ、理不尽なルールを代議士に変えてもらう、そういう機能がある。

しかし、権利を行使しなければ、そういう機会を自ら失っていることになる。

そして、権利の不行使が究極的にもたらすのは、民主主義自体の喪失である。

 

先ほどの引用の続きである。

日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読み取ることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです、これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、もはや最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。(同155頁)

 

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選挙に行くのは権利である。

しかし、ただ持っていることに安心して行使しないでいれば、いつか失うかもしれない。

我々の先祖が血を流し、命を捧げ、苦難の末に勝ち取った権利を、である。

 

現状の制度に「民意を反映しているのか」という疑問符は確かに付きまとう。

しかし、それでも民主主義だからこそ、我々は自分たちの問題を自分たちで処理することが(建前上でも)できている。

一部の人間が理不尽な命令を国民に突きつける、そんな時代に逆行してはならない。

 

若者も高齢者も誰しも、すべからく投票に行ってほしいと思う。

それは我々が持っている大切な権利を、これからも子供たちに受け継いでいくためだから。

 

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ストレスケアには音楽を聴きながらランニングを

 

現代社会において毎日のストレスケアは非常に重要である。

 

学生・社会人を問わず、多様な人とかかわる現代人にとってストレスは避けがたいものである。

しかし、時にストレスに負けてしまいそうなときもあるだろう。

社会人なりたての頃、慣れない環境にストレスから皮膚に謎のかぶれが出てきたり、ストレスフルな生活を送っていた時があった。

 

これはやばい!

と色々探しているうちに「レジリエンス」という概念に出会った。

 

レジリエンスとは、精神的な回復力を意味する。

何か困難に直面しても、立ち直る力のこと、と置き換えてもいいだろう。

失敗を恐れず、挑戦しろということである。

 

 

この本の中で述べられていることの1つに

失敗をしてもその日のうちに息抜きをせよ、というものがある。

というのも、失敗に対する反応として生じた不安感は鬱々とした気持ちでいれば何度も反復されてしまうので、それがトラウマ等になり、挑戦をする気持ちをそぐからだ。

まずは気晴らしをして、不安感を認知するべきだという。

 

その手法として次の4つがある。

①軽い運動

②音楽

③呼吸

④気持ちを紙に書きだす

 

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私はほぼ毎日筋トレとランニングをしている。

そして、その際に音楽を聴きながら走っている。

 

この習慣を始めてから仕事への姿勢が変わった。

ストレスを感じることも減少し、楽しく仕事ができるようになった。

最初は紙に書きだしたりいろいろと試したが、ストレス解消法の中でも好きな音楽を聴き、軽く体を動かすことは私に非常に合っていることがわかった。

 

楽しく過ごせることは、教師生活を送る上で一つの重要な要素だと思っている。

レジリエンス、コツコツと鍛えていきたい。

やっぱり授業は楽しい

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夏期講習が始まった。

 

夏休みに突入し、部活動に勤しむ生徒をよそに大学受験生は机に向かう。

 

私は公民科を担当しているので、センター試験で利用する生徒を対象に教えている。

それゆえ、今の時期はガリガリと詰め込む時期ではない。

 

まずは授業の中で学んだことを復習してもらう期間である。

 

そういうことを念頭に置いているから必然的に授業ではネタを入れて笑いをとるようにしている。

 

多くの中高生にとって「勉強の内容が好きであること」と「教えている先生自体が好きであること」はほぼ同義である。

 

であるから、下記のようなことが求められる。

 

元々内向型の自分にとっては、人前で話すことは大変な労力を伴う行為である。

けれども、それが苦痛でなく、むしろ楽しく感じるのはきっと教えること、授業が心から好きだからだろう。「楽しく」を心掛けているうちに、日常生活でも自然にそれができてきた気がする。

  

楽しい授業をすると、生徒も心を開く。

ああ、頑張ろうと思う。なんとステキなサイクルだろうか。

桜丘中学校の取組みから考える、これからの学校の在り方-市民を育てる学校-

 

学校の役割は何でしょうか。

 

デレックヒーターというイギリスの政治学者がいます。

彼はこんなことを言っています。

 

自由民主主義国家における教育は、個人の発達と子どもたちを生まれた社会に適応させるという2つの目的を持つものである。

 

学校に求められる役割として、子どもの成長はもちろん、社会においてふさわしい規範を身につけ、しっかりとコミュニケーションをとれる社会性を身につけることは非常に大切です。

 

しかし、「社会への適応」を単に現状の社会を肯定するという意味でとらえてはいけません。

 

教育基本法の第一章にはこう書かれています。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法:文部科学省

 

社会を作るのは一人ひとりの国民です。そして、民主主義である以上は、その社会の方向をどうするかは国民が決めることです。だからこそ、国民には社会を変革する主体としての能力が求められます。具体的には、ルールを作り、不必要なルールは廃止するといった立法的作為に関する能力です。自分たちにどのようなルールが必要なのか、そしてそれを実現してくれるであろう人を選ぶ能力です。

 

しかし、訓練もなく、そうした高度な能力が培われるはずはありません。

とするならば、誰しもが経験する学校の中でその訓練を行うことが最も合理的なわけです。 

 

ルール(制度)には目的があります。しかし、いつしか本来の目的を離れて、ルールは人々の行動を規制するようになります。そうして、時代を経ても残ったルールは「理不尽なルール」として人々を苦しめるようになります。

それがブラック校則です。理不尽な校則に子どもたちは苦しめられ、時には人権をないがしろにされることもあります。

 

社会的に見れば、こうした理不尽なルールにメスを入れるのは司法の役割です。

尊属殺重罰規定や薬事法距離制限など、憲法に違反した法律に対して裁判所は違憲判決を下してきました。それが社会を変えてきたのです。

 

しかし、学校には司法府の役割を持つ組織がありません。ですから、ルール策定者がいなくなっても、ルール自体はいつまでも残り続け、いつの間にかルールに沿って学校が動くようになります。本来の意義はどこかへ行ってしまうのです。

ただ、大切なことはルールは人々のためにあるということです。そして、ルール作りをするのは、最終的には主権を持つ国民です。ですから、学校現場でやるべきことは、子どもたちが自分たちを律するルール作りに参加することです。きっと自分たちが合意したルールにこそ愛着がわくでしょう。法の支配を学齢期から徹底させるのです。

 

そうした取り組みの例としての西郷校長の取組みは非常に注目に値するものだと思います。

bunshun.jp

 

校則をなくしたことで、かえって生徒の動きが良くなった

 

校則が割と厳しめで育ってきたからか、正直この記事を読んでもイメージがつきません。ですが、個人的には非常にいいと思ったところは次の点です。

 

普通、生徒総会は何も面白くない。つまらないじゃないですか。そこで何を言っても、最終的に先生が決めるのなら、総会で意見が出るはずもありません。だから、「ここで決まったことは実現するよ」と言ったんです。最低でも、決まったことを先生が実現する努力を見せる。すると、どんどん意見が出て盛り上がります。僕の考えと同じことを言う生徒がいると「シメた!」と思うんですよ(笑)。

 最近実現したことは、校庭に芝生を植えたこと。ただ、野球やサッカーもしますし、植えたのは一部にしました。また、定期テストをなくしました。

 

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生徒会は、社会で言えば国会・行政に当たる組織です。

公約を掲げ選ばれた生徒会ですが、多くの学校では教員の裁量権が大きい組織なのではないかと思います。また、公約も実現することはほとんどないかと思います。

 

しかし、この学校は民主主義の原則が徹底されている。

民意を反映し、それを実際に実現する、制度的な面できちんと運用がなされている。民主的な制度がしっかりと整備されていれば、子どもたちも参加する意欲をもつ。まさに、疑似社会としての学校が、社会の形成者を育てようという試みを貫徹しようとしているのです。

 

先生方、特に西郷校長先生の支援があってこそのものでしょう。

 

こうした経験をした子どもたちが民主的なマインドを持ち、社会の理不尽なルールに立ち向かう強さを持ってほしいと思います。

ですが、他の学校でいきなりこうした取り組みを行うことは困難を伴います。また、現状の社会制度がここまで民主主義が徹底されたものではなく、卒業後に生徒たちが挫折してしまう可能性もあります。こうしたところは懸念されるべきところでしょうか。

 

 

なにはともあれ、自分自身の影響力の輪を考え、まずは教室からこうした民主的な雰囲気を醸成したいですね。

子どもたちが安心、安全に意見を言える環境の整備。そこから目指したいと思います。

 

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一学期で意識すべきことは学習規律の身体化

 

教員としてのジレンマがある。

 

授業中の私語をどうとらえるか、という問題だ。

 

私は学習規律を重視するタイプなので、号令をダラダラやったり、教員が話している時に私語をされるとかなり嫌悪感を抱く。

しかし、そうした態度に対して強く注意できない理由があった。

 

それは、授業が面白ければ子どもたちは授業を受けるし、逆につまらなければ授業以外の何かに目を向けるという考えである。

 

詳しくはこちらに書いたので、よければご覧いただければと思う。

 

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しかし、号令などの授業規律に関しては授業の面白さ以前の問題である。

私語だって「はなっから授業を聞く気がない」場合には、授業の面白さとは全く関係ない。

 

号令という授業内での動作が適切に行われるかどうかは、日頃の訓練によるものである。日常生活において身につけない特殊な行為だからだ。

 

授業における学習規律を徹底させるには、まずは授業における望ましい行動をデザインし、リスト化することが重要だ。認識できないものは実現不可能である。

そして、そこから逸脱した場合には、口を酸っぱくして修正されるまで、注意することである。

もし注意しなければ、子どもたちのなかに「あっ見逃された、じゃあ次からもやって大丈夫かな」という心理が生まれてしまうだろう。

 

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溝上慎一氏はある授業を参観した際にこう述べている。

問題は、生徒が教師の指示に従わないことを、教師自身が容認し、次の課題へと授業展開したことである。これでは生徒は、「ワークをしなくてもいいんだ」「この先生の言うことを聞かなくてもいいんだ」という心境になる。結果、次からも生徒が教師の指示を十分に聞かなくなる可能性が高くなる。小さな火事を見逃したことが、後の大火に繋がる。『アクティブラーニング型授業の基本形と生徒の身体化』13-14頁

 

 

授業内において望ましい行動が生徒に身体化されるまで、教師は口を酸っぱくして注意し、是正しなければならない。

 

そもそも学習規律を重視する目的は授業内において生徒の学びが達成されることにある。というのは、私語がやかましくなれば、生徒は集中力をそがれるし、教員はそれを鎮静するために無駄なリソースを消費するからだ。

号令だって、授業と休み時間で気持ちを切り替える機能を持っているとすれば、だらだらやるなら授業に身が入らないだろう。

 

堀裕嗣氏は次のように述べる。少し長いが引用したい。

最初の三か月で授業システムを構築する。

意外と意識されていませんが、生徒たちが荒れ始める最初の場は授業です。いわゆる弱い教科担任の授業から荒れ始めます。ですから、授業においてもシステムを敷くことが重要です。

野中信行先生は「3・7・30の法則」において、システムの定着に30日というめどを示しました。しかし、中学校では、学級のシステムは30日で定着しますが、授業のシステムが定着するには約三か月かかります。要するに、一学期間ずっと、ということですね、学級システムは毎日機能させますが、授業システムは多くて週三回ですから、当たり前といえば当たり前の話です。

一学期には発言の仕方、話し合いの仕方、ノートの取り方、調べ学習の仕方、道具の使い方、しまい方等々、かなり丁寧に説明して、かなりしつこくチェックすることが必要です。また、できれば一学期はどんな低学力生徒でも取り組めるような授業内容を中心にして、意欲を切らさないようにすることも大切です。授業に対する意欲を失った生徒から荒れていく、というのが中学校の現実なのですから。『生徒指導10の原理 100の原則』164頁

 

 

 人間の習慣が定着するには一説に66日が必要という。限られた授業日数の中で習慣化を目指すのであれば、一学期間は最低限必要な期間なのだろう。

ただ、夏休みを経てかなりの生徒は身体化された動作を忘れてしまうだろうから二学期から根気強く言わなければならない。

 

最後に。

まずは教師が手本を見せることである。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば人は動かじ、である。

 

お気づきかと思うが、上述の部分は私自身の今学期の反省を述べたものである。

二学期から切り替えないと…

「楽しく」を胸に刻もう

 

授業の時間が近づくにつれて、息が荒くなる。

 

キーンコーンカーンコーン

 

ああ…チャイムが鳴った。授業に行かなきゃ…

 

職員室を出て、教室に向かう階段。一段一段上るごとに息が荒くなる。

 

呼吸が浅くなり、心臓がバクバクする。

緊張は最高潮に達する。

 

やばいな…

 

それでも、どうにか落ち着こうと深呼吸をするが、全然落ち着かない。

 

勢いだけで教室に入り、暗い気持ちで授業を始める。

 

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これは1年間まえの私の実体験である。

 

去年、偏差値が出ないようなクラスを受け持っていた。

 

大学1年から大学院修了までずっと集団塾で教えていた。そこで身につけたスキルは現場でも通用すると思っていた。かなり自信があった。

 

けれども、そこでのスキルはたいして通用しなかった。

 

結局、受験という目的意識があって、だからこそ、負荷の高い授業が成立していたのであって、環境が違いすぎたのだ。

 

むしろ、そこで求められたスキルは、いかに勉強を勉強と感じさせないか、楽しく「のせる」かが重要だった。授業をまじめにやりたい自分としてはかなり絶望したし、塾では「勉強しないなら受験なんてやめちまえ」というスタンスでやってきたので、勉強が苦手でかつやる必要性を感じていない生徒の面倒を見るのは初めての経験だったのだ。

 

挫折、である。

 

毎日、うつうつとした気持ちだった。

4月の最初は楽しそうだし、熱意もあるから言うことを聞いてくる。

 

しかし、だんだん荒れてくる。

 

そうなると余裕がなくなり、最初とばしていたジョークや雑談もしなくなる。

 

教員が暗そうにしていると、生徒は途端にそっぽを向く。

当たり前だ、彼らは勉強というコンテンツには最初から興味がない。彼らは、教師という伝え手のキャラを、人柄を見ているのだ。教師自身のキャラが立っていれば、話が面白ければ、こちらを向くのだ。そうして、指示が通り、授業はうまく回っていく。

 

私が去年痛感したのは、完全な経験不足である。

知識はもちろんのこと、それらを面白く伝えるトーク術、生徒を飽きさせない授業をつくるデザイン力、毎日楽しくいるメンタルヘルスの習慣など…。

 

以来、それらを磨くためにコツコツと修行してきた。

しかし、コツコツと貯めてきた貯金がもうすぐ尽きそうになった。

 

そうなると余裕がなくなって、周りが見えなくなってくる。

楽しそうではなくなってくる。

 

最近、うつうつとした気分で一日を終えることが多く、昔のことを思い出していた。

 

もう二度とあんな期間は過ごしたくない。

 

2年目に入り、1学期ももうすぐ終わろうとしている。夏休みでチャージして2学期からも楽しい授業を提供して生徒を学びに導きたいと思っている。

 

教員が楽しそうに授業をすれば、生徒も楽しくなってくるのだ。今、こうやって認識できるのも昔のことがあったからだ。

 

だからこそ、かつての出来事を忘れてはならないと思ってこの記事を書いた。

 

こうしてふりかえると、なんだか強迫観念みたいだなあ笑

 

 

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日々ネタを集めては使って…

 

騒がしい授業。

 

どんな先生でも、授業中に生徒の私語がやまない場面は見たことはないでしょうか。

もちろん、自分の授業ではなく、同僚の授業も含めてです。

 

去年、私が担当していたクラスの大部分はスポーツ推薦で入学してきた生徒が多くを占めるクラスでした。

 

そもそも「部活のために入学してきた」という意識のある生徒に対して「高校生の本分は勉強することだ」と正論をかましても反発を招くだけです。

それが通用するのは体育科か部活の顧問の怖い先生だけでしょう。

 

若く、頼りない私には恐怖政治による生徒指導・教科指導はできませんでした。そもそも強制があまり性に合わないというのもありますが。

 

ですから、面白い授業をして、生徒を勉強したいと思わせよう、と考えるようになりました。

「教材研究は絶対に負けない領域にしよう」と思って生活の大部分を教材研究に割くようになります。

 

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しかし、そこは新卒ペーペーの授業です。基本的な生徒指導力がないため、ネタを出そうが、聞かない。うるさい。聞かない。そのループ。

しかし、たま~に面白い教材を提示すると生徒たちも食いつきます。普段の有り余るパワーが授業に向かうため、その爆発力はすさまじい。

 

私財を投下して、これ面白そうだな~とコツコツメモしたものを惜しげもなく披露します。

しかし、大抵の場合10投資してもリターンは1です。すぐにネタは尽きます。

 

ただ、こうした体験を何回かしたため、私は生徒が授業を聞かない(私語をする)のは、授業がつまらないからだという認識に立っています。

そして、それに加え、聞こうと思うのは人間関係にもよっていると思うので、ラポールの構築には気を配っています。

 

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収拾がつかなくなってきましたが、言いたいことは

テスト前だけどネタ集めで働き方改革に逆行しているなあということです。笑

 

ちなみに公民で参考になったネタ本です。経済分野では河原和之先生の虜になりました。それでは。

 

教材研究で役に立つテレビ番組【公民科】

 

 

昨日、地理のネタ探しにテレビ番組を活用しているという宮地先生のツイートを見かけました。

公民科でもネタ探しで使えそうなテレビ番組って何だろうとツイートしたところ、コメントをいただきましたのでそれをまとめさせていただきます。

 

 

はやし@育休中さん、まろさん、コメントいただきありがとうございました。

  

はやしさんより

 

 

クローズアップ現代

www.nhk.or.jp

 

バンキシャ

www.ntv.co.jp

 

オイコノミア

www2.nhk.or.jp

 

オイコノミアは残念ながら終わってしまいましたね…

NHK強し。

 

加えて、世界の哲学者に人生相談という番組もお教えいただきました。

 

世界の哲学者に人生相談

www4.nhk.or.jp

 

まろさんより

 

映像19

www.mbs.jp

 

トップニュース

www6.nhk.or.jp

 

国際報道

www.nhk.or.jp

 

映像19は近畿圏を中心に放送されているみたいです。

残念ながら私は見れない…。

 

個人的に

 

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教材研究だと、やっぱりNHKは心強いですね。あと池上彰さんの特番も。

そういえば、NHKドキュメンタリーの「欲望の資本主義」シリーズも面白かったです。

 

欲望の資本主義

www.nhk.or.jp

 

あとは、映像の世紀も使ってます。もちろん公民だけでなく、世界史の授業でも活用しています。

 

映像の世紀

www4.nhk.or.jp

 

宮地先生のように様々なツールで教材研究ができると、研究がさらに楽しくなりますね。

もしこれ以外にもご存知の方がいらっしゃったら是非ご教授いただけたらと思います。

それでは。

 

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授業の成否は結局ラポール

 

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新学期が始まり二か月が過ぎました。

 

高3生も受験に向かってシフトチェンジするころでしょう。

かといって受験!受験!と汲々としていない時期でもあるのかなと思います。

 

私の担当するのは公民科目です。

受験生はセンターでしか使いません。

 

ですので重要度はあまり高くありません。

 

さて、この間の授業で今学期はじめて内職をしている生徒を見つけました。

 

(おお…内職してる!)

 

ビックリしたのが第一ですが、同時に悲しく、悔しくもありました。

 

聴くに値しない授業を提供していると思うと、悔しくて仕方ないからです。

 

しかし、私の考え方が多分に目的合理的なので、「受験突破という目的に照らして行動してるのならいいか…」とその時は見過ごしてしまいました。

 

しかし、全員が同じ行動をとるのであれば、私はもはや授業をする意味はないでしょう。

 

そんなふうに悩んでいたら、こんな記事を見つけました。

www.yacchaesensei.com

 

そうか、そういう対処法があるかと納得する記事でした。

 

とりあえずその日は放置しましたが、いずれこれは解決しなきゃなあと思うのです。

 

一方で私の授業をしっかり聞いている生徒の特徴を思い浮かべると

 

授業外でコミュニケーションを一定程度取っている生徒が当てはまりました。

 

結局は日頃のコミュニケーションの積み重ねで信頼関係が構築される。

そして、授業をコミュニケーションの一環と捉えれば、授業中に教員の話を聞く、自分の意見を述べる、そういう営みも日常生活の延長線上にあるものに過ぎないと思うのです。

ちなみにタイトルのラポールは心理学用語で信頼関係を意味します。

 

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じゃあ私がすべきは何か、というと現実にあらゆる生徒に話しかけるのは難しい。

となれば、授業中で話しかける、目を合わせる、笑顔でいる(好印象でいる)といったところでしょうか…

結局は制限の中で如何にコミュニケーションを重ねるか、という戦略とデザインに尽きるのかな。

う~む、コミュニケーションの悩みは尽きません。

橋下徹氏の発言に見るこの国のリーダーたち

 

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一匹の妖怪が日本を徘徊している、分断という妖怪が。

最近、分断社会というキーワードを目にすることが増えた。

 

さて、橋下徹氏のツイートが注目を集めている。

 

 

 

 

東洋と西洋で異なる為政者観

 

王さまはどうあるべきですか?

 

読者の方はこの質問にどう答えるだろうか。

 

というか、この問いを発すること自体が、すでにある価値観を前提としている。

それは東洋的な為政者観である。

 

東洋の王の理想像は徳をもった君主である。

すなわち徳のある王が統治すれば、安寧な社会が訪れる、という社会観、為政者観である。

 

一方で、西洋はどうしようもない王を殺してきた歴史をもつ。

(もちろん易姓革命を正当性として、愚鈍な王を殺してきたのは東洋も変わらないが)

 

その根底には権力を有する者は暴走する、という価値観がある。

だからこそ、権力同士が監視をしたり、被治者が治者に対して監視をするというプレコミットメントの発想があるのだ。

 

何故こんな話をしたのか、というと橋下徹氏の発言から現代日本の主要なリーダーの姿が浮き彫りになってきたからだ。

 

橋下氏の発言から見えてくるのは

 

橋下氏といえば、前大阪市長であり、その前には大阪府知事を全うした胆力の持ち主である。

私の世代の橋下氏のイメージといえば、「テレビに出てるチャラい弁護士」だった。

しかし、能ある鷹は爪を隠す。

敏腕弁護士はタレントとして知名度を上げ、一躍日本第二の都市の首長となった。 

 

さらにさかのぼれば、名門北野高校を卒業後、早稲田大学へ進学。その後、弁護士として活躍する。

 

さて、このようなエリート街道を走ってきた方に多いのが自助の発想である。

 

何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか

 

 他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない。本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責められない

 

これらの発言から見えてくるのは次のようなものだ。

 

  • 他人に究極的な迷惑をかける(殺人という形で)子どもを持っていたら、抑止力がないのだから先に殺して迷惑をかける事態の発生を抑制することは倫理的に許される(単純な功利主義
  • 一度ドロップアウトした人間に対しての支援よりも、彼らを抱える親に対する支援を先に整備せよ
  • 子育てを社会的にどうしていくべきかという視点がない

 

かつては為政者として政策立案にかかわっていたであろうに、彼の発言からはドロップアウトした人間に対する救済手段への言及がない。

競争に負けたら負けっぱなしだというのが前提にある。

 

※もちろん、私自身は引きこもりの子を抱える親への支援は大事だと思います。

 

今回の事件のように、農水次官の息子が現在の結果に至るまでに本人の努力や意思という要素はかなりあっただろう。しかし、そこに至るまでに避けられない社会的要因もありうるのだ。

 

そういうときに、社会に対して恨みを持つほど放置していいのだろうか。

社会が救いの手を差し伸べることが大事なのではないだろうか。

 

民主主義社会において王は国民

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橋下氏といえば、大阪都構想行政改革で名をはせた人物である。

それは徹底的な効率性の重視であり、成果主義の重視であり、競争の重視である。

それは一組織の活性化には効果的かもしれない。

 

しかし、あらゆる社会部門において効率性が機能するわけではない。

 

競争に負けて、負けっぱなしで放置していればどうなるのか。

社会が社会であり続けるためには、分断ではなく社会的な弱者への包摂が重要なのではないか。

失敗したら、いつでもリスタートできるような環境の整備が重要なのではないだろうか。

競争社会の成れの果ては、ゲーテッドコミュニティのような物理的な分断から、移民・難民への迫害など精神的な分断までを含む広範な分断社会である。

 

政府部門にできることは如何に分断を食い止めるか、そのシステムの構築にあると思う。

 

為政者に必要なものは、自己責任だけでなく、福祉の視点である。

競争に負けたものには救済を、競争を始めたいものには環境の整備をすべきであろう。

 

現代の日本は新自由主義的な方向に進んでいると言われている。

そして、特に中曽根内閣以降、規制緩和や民営化などをはじめとして、それが実際に具体化されるつある。

 

中央省庁の官僚をはじめ、現代日本のリーダーたちの多くは自己責任的な発想を持っていると思われる。

橋下氏と同様、学歴競争、就活競争を勝ち抜いてきた猛者である。

 

さて、小さな政府に転換したとはいえども、政府の役割は大きい。なぜならば、依然として我々の生活に大きな影響力を与えているのだから。大学への補助金の許認可も消費税の増税も政府が決めているのだから。

 

だからこそ、我々は政府の人間をきちんと選ばなければならないし、もはや東洋的な君主に期待して行動していては生活が破綻するのが目に見えている

 

一億総帝王

 

東洋的な価値観では全人的な君主が理想とされる。

しかし、統治するのもされるのも同じ人間だし、選ぶのも選ばれるのも同じ人間である。

完全無欠な人間などいないし、為政者も間違いうる。

 

だから、我々は為政者を徹底的に監視しなければならないのだ。

 

さて、今度は別の質問をしよう。

 

みなさんはどんな社会を作っていきたいですか?

 

バラバラな社会ですか?まとまった社会ですか?

 

民主主義社会においては国民一人ひとりが王である。

だからこそ、我々一人ひとりが理想の社会像を持つことが重要であり、その具体的な実践があればこそ、為政者への打撃となるのである。

 

競争の重要さは重々承知している。しかし、私自身は今の自己責任を声高に叫ぶ風潮には辟易するし、社会のどこかで困っている人がいれば救い合うような社会が訪れてほしい。

 

最後に憲法第12条を引用して終わりとしたい。

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

川崎で起きた通り魔事件の被害者、遺族の方にはお悔やみ申し上げます。