Shiras Civics

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「人生をどう生きるか」がテーマのブログです。自分を実験台にして、哲学や心理学とかを使って人生戦略をひたすら考えている教師が書いています。ちなみに政経と倫理を教えてます。

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不満の大元は「声を聴いてもらえないこと」

 

 

 

為政者に求めること

 

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今は大きな社会的変化の渦中にある。明治維新から150年が過ぎ、その当時のシステムが変わらざるを得なくなっている。学校というシステムもその一つだ。

 

ここで政策決定者に求めたいことがある。

それは、多様な視点を吸い上げることである。

具体的には政府の政策委員には多様な背景を持つ人を呼んでほしい、ということである。

たとえば、中央教育審議会のメンバーを参考にしたい。

www.mext.go.jp

 

リストを見ると、専門家が呼ばれていることがわかる。

ただ、ここで街の人たちの声はどうやって吸い上げられるのだろうか。

主婦や学生、管理職以外の先生、組織の末端の構成員、若者などなど…

大学教授や学術会議のトップなどはどうしたって同じようなバックグラウンドを有する。すべてを調べているわけではないが、多様な視点はあれども、その限界はあるだろう。

こうして議論していても当事者は蚊帳の外なのだから。

 

別に権力が腐敗するというわけではないけれども、強者ばかりの発想では窮屈にはならないだろうか。

 

現実には難しいけれども

何故こんなことを言ったかと言えば、現在の国会と選挙制度では「多様な声」を吸い上げることは不可能だからである。

というのは、衆議院でも参議院でも選挙区選挙が行われており、特に衆議院小選挙区制の下では絶対に多様な声を反映することはできないから。小選挙区制では死票、つまり無駄になってしまう票が多くなる。時には当選者の獲得票数を死票が超える場合さえある※。

 

同時に国会は政策立案ではなく、官僚の政策の後追いの場である。

近年においては議員提出法案と成立率も上昇しているが、それでもやはり内閣提出法案の提出数と成立率は圧倒的である。

そして、内閣提出法案は官僚が作成し、与党が合意したものである。提出される段階で、修正の余地はほとんどなく、与党議員も人事権を党総裁に握られているので、ほとんど反対することはない。

したがって、現状の選挙制度においては与党支持者以外の声を反映することは極めて難しい。

 

だからと言って、前述のように政策会合に当事者を交えるのは極めて非合理的である。

というのは物理的制約に加えて、インセンティブのない会合に素人が参加する意欲は通常持たないからである。

 

これからの社会でできること

 

提案として、ビッグデータの活用というのを一つあげたい。

 

政治家の機能は政策決定と民意の集約である。

だが、前者はともかく後者は非常に難しい。

そもそも主権者の意思を代理するという絶対に実現しないフィクションが市民革命以降運用されてきた。

フィクションが長い間運用されてきたことで、伝統となり、我々にとって「当たり前」となっているだけであって、技術的に可能であるならば、政治家に代替できないだろうか。

これこそ究極の民意の反映ではないだろうか。

インターネットさえ使えれば、今まで表舞台に出てこなかった要求も出てくるかもしれない。

 

政治家をなくさずとも、立法過程でこのような技術を活用できはしないだろうか。

 

不満の大本は

 

結局は自分の声を聴いてもらえない、反映されない、そういうところに主権者としての無力感を感じるのである。

国民主権だってフィクションであるが、そもそもそのフィクションを根拠にして、政治家は政治をやっているわけである。なんだかなあ、という腑に落ちない思いがずっとある。

 

という7月終わりの妄想をお送りしました。

 

※すべて比例代表制にすれば解決するという簡単な問題でもありません。

ヨーロッパの小国などを参考にすると、かなり長い間努力して連立政権がうまくいった経緯があったりしますから。

 

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今さら上野千鶴子さんの「東大祝辞」を読んで考えたこと

 

 

今年話題になった上野千鶴子さんの東大入学スピーチについて、今さらになってしっかり読んでみた。

 

www.u-tokyo.ac.jp

(こちらのサイトに全文が載っています。)

 

こうしてしっかり読んでみて、色々と考えたことがあるので、それをつらつらと書いていこうと思う(ちょっと重いですよ~)。

 

 

フェミニズムに対する誤解

まずはスピーチの抜粋をご覧いただきたい。

 

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

 

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昔むかしのこと。

大学生の頃の自分はフェミニズムを嫌悪していた。

理由はいくつかあるが、1つは活動家が教条的に見えること、もう1つは伝統をただただ破壊する思想だと思っていたからだ。

 

しかし、考えが変わった。社会変革に援用できる思想だと思うようになった。

たとえば伝統に関して。

いざ社会に出て「伝統」なるものに触れると「意味が分からない」と思うことがある。

極めて非合理的じゃないか。こんなものして何になるんだ、と思うことがいくつもあった。

それから引用にあるように「弱者」の存在を知ったことが大きい。どちらかと言えば、自分自身もそちら側の存在だった。あまり豊かではない家庭で育ち、幼少期から他者と比較して違和感を感じることが多かった記憶がある。

子どもは時に大人の想像を超えた残酷さを見せる。純粋な疑問から発した言葉が私の心を大きくえぐったこともあった。そのたびに弱みを見せまいとヘラヘラと笑っていた。

思えば、あのころの経験が、自分と向き合うための心理学や社会の不合理を見極める社会科学へといざなったのだろう。

 

さて、こうした経験に加えて学問は確実なセルフイメージをもたらした。

大学院で多様な書籍に触れたことで学術的な知見を得たこと、社会に出て様々な事情のある子供たちや家庭に触れたことで、あやふやな自分自身への育ちに対する認識は豊かではなかったという確信に変わる。

そして、今自分の暮らしがあまり豊かではない(これも他者と比較している)ことの影響も大きい。

 

弱者が弱者のまま尊重される。肯定される。素敵な社会ではないか。そういう風に思った。

もちろん、大学院まで進ませてもらって何が貧困だ、という方もいらっしゃるだろうが、これはあくまでも私自身の主観的な問題である。加えておくと、進学費用はすべて奨学金で賄っている。

 

自分の中にあるジレンマに気づく

ただ自分は弱者として過ごしてきた期間が長かった。そういう認識がある。

弱者としてあってはならないと言い聞かせ、いつも人の顔色や集団内での立ち位置を気にしてきた。

本心から、自分の好きなように過ごしてこなかったなあと今この記事を書いていて非常に後悔している。

そういった成長過程の中で「強者になりたい」という欲求がどこかにあることにも気づいた。

だが、強者になるには果てしない競争を勝ち抜かなければならない。

けれども、その果てに満足はあるのだろうか?

 

どんなに頑張っても報われないこともある

頑張っても報われないこと。

この社会のテーマにうすうす感づいていたのは高校生頃である。

部活動でどんなに頑張ろうと、生まれながらの身体能力はもちろん、親の経済力・趣向によってスポーツの開始年齢が異なる。

 

特に運動に関する神経の発達は早期のスポーツ開始によってその程度が異なってくる。つまり、親次第である。

私の親は自由放任主義であった。そのことについてはとやかく言うつもりはないし、大学進学や就職においても私の意思を尊重してくれたことには感謝している。

けれども、幼少期において子どもの意思などない。「何かやりたい」という欲求を持たせ、それを尊重させるには、様々な選択肢の存在を「知らせ」、その欲求を「伝える」ことのできる環境の整備が必要である。安全・安心に発言のできる環境である。

 

そういうものが圧倒的に欠如していたために、スポーツの開始年齢も遅かった。

必然、色々と苦労した。そういう苦労も医学書に手を伸ばすほど悩ませるものだったが、前述の神経系の発達を知って、運動でこれ以上の成果は無理だと悟り、勉強を頑張る方面にシフトした。

 

けれども、勉強だって大学に入ってスーパーエリートの存在を知って、どうにもならないことがあると知った。

化け物かこいつは、と思う人が何人もいた。地頭の差とでもいうのだろうか。絶対に勝てないという人は大学で初めて会った。

 

そういう人のバックグラウンドを知ると卒倒しそうになる。みんなが知ってる企業の役員だったり、地方の名士などなど。ヒエー…という感じである。

 

誰が悪いというわけではない。

社会という大きな枠組みの中に、階段があるとすれば、自分が生まれた階段はものすごく低いところから登るしかなかっただけなのであって、たまたま他の人は低く生まれたり、高く生まれたりしただけなのだ。

 

そこから上っていくには今自分が何段目にいるのか認識を正しくする必要がある。

だからこそ、社会を絶対視せずに相対視する。

もし非合理な制度だったり、それによって苦しめられている人がいるならば、変革していくべきである。

そういう自分の姿勢はこうした経験の中で育まれたのだろうと思う。

 

記憶に残っている言葉

忘れられない言葉がある。

 

今の社会は40代以上の男性はとても幸せな社会である、と誰か大学教授が言っていた。

世界の幸福度指数で日本の幸福度は58位だと。でも、この数字は正確ではない。なぜなら、女性や若者は非常に幸せを感じられていないが、現在の社会システムが40代以上の男性に適応する形で設計されているからだ、と(もちろん、これは主観的調査なので40代以上の男性でも様々な捉え方がいることを承知の上でこのような表記をしていますことはご承知ください)。

 

自分にとって何となくインパクトのある言葉だった。

大体において幸せ・不幸せという問題は経済的な問題に由来するのだが、現在社会において経済的な豊かさは様々な問題を解決してくれる。

 

これは自分自身の所得だけでなく、親の資産も関係している。

 

そして、経済的な資産の有無は文化的な資産にも関係してくる。

 

学歴社会という明治時代から続く「伝統」があって、その伝統が上位の人間によって再生産されている。今ここでエビデンスがあるわけでないが、世襲政治家のプロフィールやら何やらを見ていると、そういう思いはより強まってくる。

 

教育で何ができるだろうか

家庭は様々な機能を担っている。

社会化機能や生活維持機能、子供の居場所としての機能など。

しかし、家庭に問題があれば、コミュニケーションを訓練したり、感情を育んだり、自己肯定感を高める場は喪失してしまうかもしれない。

 

問題のある家庭で育った子どもたちは、大人になっても何らかの問題を抱えている。

環境に適応できなかったり、精神的な疾患を抱えたり…

 

だからこそ、今の社会では学校の役割が大きく見直されているのだろうが、教師だけに求める問題ではないと思う。

公立の学校で小学校~高校までを過ごし、私立の学校で働いているからこそ、家庭次第で大きく子どもたちの可能性が変わってくると思っている。

 

だからこそ、家庭の教育力に対して社会的に見直しをして、家庭に対する支援を充実させたり、NPO学童保育などに支援の手を入れるべきだろう。

 

子どもたちが、社会という目に見えない存在に、不可抗力的に飲まれて、未来を摘まれてはならない。

僕はこの記事を泣きそうになりながら書いている。自分の経験に照らし合わせて、つらい思いを子どもたちにさせるような、そんな社会ではならないと強く、強く思うのだ。

 

上野千鶴子さんの祝辞は目に見えない、私たちを縛る呪いを、可視化してくれるステキな文章だった。

 

toyokeizai.net

 

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教師は感情労働者

 

 

以前教師には感情労働を求められるという記事を書いた。

 

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感情労働とは

感情労働は次のように定義される。

 

相手(=顧客)の精神を特別な状態に導くために、自分の感情を誘発、または抑圧することを職務にする、精神と感情の協調が必要な労働のこと。

感情が労働内容にもたらす影響が大きく、かつ適切・不適切な感情が明文化されており、会社からの管理・指導の上で、本来の感情を押し殺して職務を遂行することが求められる。

ホックシールドという社会学者による概念である。

(「感情労働とは?感情労働の職種とストレスについて」より

https://www.kaonavi.jp/dictionary/emotional-labor/

 

現場で働いていて、この説明は非常に腑に落ちる。

実際、対人関係を職務とする職種の人たちは納得される記述だろう。

 

教員の場合「別に本心では怒っていなくとも」叱らなければならない。

「別に楽しくなくとも」楽しい雰囲気を出した方が生徒指導上効率的である。

保護者対応においてもニコニコしていた方が「無難である」。

 

しかし、私は上に書いたような器用なことはできない。

叱るときは冷静に叱るし、楽しくいれるように日々心掛けている。

 

それでも、時には相反する感情を演じなければならない時がある。

 

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感情のコントロールなのか、演技力なのか

教師の職務は、生徒の学びという目的にすべて結実する。

その遂行のために「表出」する感情をコントロールする能力が非常に求められていると思う。ここで、「表出」としたのは、その感情が実際の心の動きと連動しているか否かは問われないからだ。

 

だからこそ、心の底から楽しんだり、生徒を叱ったりする先生もいる一方で、「芸者」に徹している先生もいるのだろう。

どちらももたらす結果が同じであるならば、個人に合った方を選択すればいいと思う。

 

自分の場合は「現状において」心の動きと連動しない形で体を動かすことはできない。

だから、感情のコントロールをする方向性で訓練していくのだろう。

 

感情のコントロールの難しさ

 

以前、アドラー心理学にドはまりした。

しかし、アドラー心理学は自分には合わなかった。根本的な解決をせずに、データを上書きするイメージだからだ。体の不都合があっても、見えないふりをするようなイメージ。原因論の否定なんかは自分には全く合わなかった。

 

今はフロイトを勉強している。

自分の生育過程で奥底に染みついた心の反応は、容易には取り除けない。だから、それを認識することが感情のコントロールの第一歩となる。

 

心理学の重要性、大学の教職課程でもっと知りたかったなあ。

 

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仕事でミスをしても切り替えればいいが、へこむものはへこむ

 

 

 

ヒューマンエラーという言葉がある。

 

blog.mcdata.plus

 

ヒューマンエラーの12分類
危険軽視・慣れ 不注意 無知・未経験・不慣れ
近道・省略行動 高齢者の心身機能低下 錯覚
場面行動本能 パニック 連絡不足
疲労 単調作業による意識低下 集団欠陥

(ケンセツプラス「ヒューマンエラーとは?分類・定義から対策を考える」より引用)

 

何故こんな概念を持ち出したのかというと、まさに今日エラーをしでかしたからである。

 

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しでかした

 2つ。

1つは間違った知識を伝達して、授業後に間違いに気づいたこと。

2つ目は仕事の時間を間違えたことである。

 

前者は、単純にド忘れしていたことが原因である。

予習不足が原因であって、それは事前に十分な時間を取らなかったために生じた。

時間を取らなかったのか、取れなかったのか定かにできないのは自分が時間の使い方を把握していないからである。

お金の収支を把握しないと節約なんかができないように、持ち時間の使われ方を把握しないと隙間時間の確保なぞできない。

手帳に記録をしっかりつけることができないと…

 

後者は確認を怠ったことに起因する。

新人のミスに多い、確認ミス。まさに今回はこれが生じた。

幸いなことに上司に言われて約束の時間に間に合ったが、他律的に動いてしまったことで、部署全体の作業効率・生産性は低下してしまった。

自分の仕事は自律的にこなさなければ…

 

とにかくへこむ

何故かくも、同じようなミスを繰り返すのか。

それは生活の中で仕組化されていないからである。

 

確認ミスは一日のスケジュールを朝、しっかりと立てていないから。

授業の間違いは記録をつけていないから。

いよいよ積読のこちらの本を読むタイミングが来たというべきか。

 

授業を大事にしている人間としては、間違えた知識を伝達したという事実にへこむ。

すぐに訂正したものの、こういうところから教員への信頼は薄れていくだろうから。

今までのラポールのおつりで何とか何とか持っている感じだ。

 

ただいつまでもくよくよしていても仕方がないので、こうやって反省点を文章化して、軽く運動をして、切り替えるようにしている。

反省を次に生かして、より良い教員になろう。

 

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学校の役割とは-基礎集団から機能集団への過渡期-

 

 

若槻千夏さんの発言が波紋を呼んでいる。

 

news zero」の特番「zero選挙2019新時代の大問題」第2部にゲスト出演した若槻千夏の発言が“モンペ”(モンスターペアレント)的だと一時ネットは炎上状態となり、一夜明けて若槻が自身のインスタグラムで謝罪コメントを発表する事態となった。

(中略)

コメンテーターの一人として出演した若槻は、「何かあったらどうするのか。18時以降対応しないで、もし子どもが帰ってこなかったらどうする」などと教師に反論。教師は「それは学校の役目ではなく、たとえば万引きがあったら警察の役目、他に何かあっても親の役目と思う」と意見を述べるも、若槻は「寂しい。もし子どもが帰ってこなければ心配になってさがすが、見つからなかったら学校に電話する。(時間外なら)それも対応してくれないってことですね」と疑問を呈した。 

 

集団の類型論

教師の(期待されている)役割は多い。

学校外でのパトロールであったり、家庭内の問題に対する保護者からの相談対応であったり、幅広い対応が求められる。

しかし、それは教師本来の職務であろうか。

 

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集団は大きく分けて2種類ある。

1つが基礎集団。これは血縁や地縁などを媒介にした集団で、自然に形成される集団である。生まれてから初めて所属するのがこの基礎集団であり、共同体ともいう。

もう1つが機能集団。何らかの目的に基づいて形成された集団で、集団内において目的達成のためのシステムが構築される。学校は機能集団に該当する。

 

ここで問われていることは、学校の機能とは何なのか、ということであり、この発言をきっかけに学校観(教師観?)の違いが噴出したわけである。

 

かつての教師の役割

前述の若槻さんの発言にあるような多様な役割を担う学校観は、1980年代の「金八先生」といった学園ドラマによって構築された感が強い。

1980年代といえば、校内暴力の嵐が全国で吹き荒れていたころである。

ツッパリ、ヤンキーなどなど。当時教員をやっている方によれば「舐められたら終わりだった」「絶対に笑顔を見せなかった」など、今では信じられないような話を聞く。

 

こうした時代において教員の役割の大きな部分として、「自校の生徒が街に繰り出して迷惑をかけないこと」が求められただろう。

夜回り先生だってたくさんいただろう。

「人間的なつながりを作って、ヤンキーを授業に出させる」。そんな地道な苦労を教育実習先の先生にも聞いたことがある。

 

教員だって労働者

ただ、本来的に言えば、教員は労働者である。

勤務時間を終えた後に業務をする労働上の義務はない。

子どもの管理などは家庭の役割であろうし、犯罪行為に対する対処であれば警察の役割である。

 

どこまでを教員の仕事とするかの線引きが極めてあいまいなまま議論が進んできた。

日本企業もそうだが、ルールが明確でなく、暗黙の了解のような「空気」で組織が動く傾向がある。学校も当然、共同体的に動いてきた。時に家族のように生徒をしかり、地域のように連帯の場となる。

 

だが教員の中心業務は授業である。

グローバルに競争が激化している中で、これからの社会を担う人材を育てるためにも学力の向上は極めて重要な学校の役割である。

街の見回りや際限のない生徒指導で疲弊してしまい、満足に授業準備ができない教員が何人といるか。そのジレンマに苦しみ、知り合いの先生が何人精神病にかかったか。

 

本来の役割に回帰しよう

学校は本来の役割である生徒の学力向上に大きく資するべきであって、授業などの教育活動を中心に据えるべきである。そのためにも教員に十分な余裕を与えるべきであって、それができないのであれば労働に対する報酬を適切に配分すべきである。

 

資源は有限である。教師という教育に特化した集団のリソースは教育活動に投下されるべきである。何のために「教科」の免許を取っているのか。

 

分業によって近代社会は発展してきた。学校も当然、「教育」という強みに特化すべきであろうし、何でもかんでもやるのではなく専門家に任せるべきことは任せるべきである。

そして、際限なき業務は徐々に別の組織へとアウトソースすべきであろう。

具体的には家庭や地域、行政などと役割を分担するべきである。

 

※もちろん、家族機能が低下している現状においては、スクールカウンセラーソーシャルワーカーなどと適切に連携することが必要であると思う。家庭の教育力の格差が子どもの進学や就職に大きく影響を与えていることは何としても是正しなければならないと思う。

 

なにはともあれ、若槻さんの発言は考えてくれる機会を提供してくれた。そのことに感謝したい。

 

news.yahoo.co.jp

 

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教員の生産性

 

 

去年の教訓


去年、精神的にかなりまずかった時期がある。

 

その時は教材研究に追い込まれていた。

 

地歴公民科や理科の特徴であると思うが、大学や大学院での専門とは全く異なる科目を任されることはよくある。

 

専門ではないとはいえ、きっちりと授業準備をする必要がある。

いや、むしろ専門ではないからこそ、一からしっかりと理解して授業に臨む必要がある。

 

ということをどの科目でもやっていたら、当然時間が足りなくなった。

 

生活の大部分を教材研究に費やす。それでも、時間が足りない。睡眠時間を削る。頭が働かなくなり、効率が悪くなる。授業でも時間をつぎ込んだ割にクオリティが伴っていない上に、疲れているから、うまくいかなかった。それがストレスとなり、ますます効率を下げる。負のスパイラルが一度回ってしまうと抜け出すのは難しい。

 

反省を生かして…

 

今年は去年の失敗を徹底的に避けるよう行動してきた。

 

まず環境面で好条件となったのは、専門科目だけを持つことができている点だ。

学年はバラバラだが、教材研究をしても一定程度の汎用性がある。

 

また去年準備したものを一部活用することで、かなり楽になった。

 

余裕があることは、教員の精神状態に大きく影響する。

精神的な余裕は授業の中でも生徒に伝わり、それが授業の成否、生徒の好反応をもたらす。

生徒が安心して授業を受けるには、まず教えて側が精神的な余裕を持つことが必須である。

次期学習指導要領が授業改革を主眼としているのならば、教員の働き方改革はかなり大事なのであろう。肌感覚で理解できた。

 

そして、こうした経験は次のような信念を私にもたらした。

 

今の苦労はこの先の働き方改革につながる

 

そういう信念が実際の成功体験と相まって、今の自分を突き動かしている。

 

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ただし、まだまだ時間感覚は甘い。

 

 

時間を意識して、有限な資源を教材研究に投下したい。

教材研究の積み重ね、このへんの改革が働き方改革の鍵になるのだろう。

そして、私はこういう余裕のある生活を求めているのだろう。

 

もし学生の方が読んでいるならば、とことん教材を用意することでかなり楽になることはお伝えしたい。

 

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若者「も」選挙に行こう-人類の努力を紡ぐために-

 

今日は参議院議員選挙の日だ。

 

昨今、若者の低い投票率が問題になっている。

そこで、若者に投票に行ってもらうよう様々な働きかけがなされている。

 

色々と説得がなされているが、選挙に行かないとどうなるか、という視点から表題の件について考えてみたい。

 

選挙権とは、主権者として位置づけられる国民が国家権力の政治過程に参加することのできる権利である。この権利は民主主義の拡大と軌を一にする権利であって、民主主義に不可欠の権利である。

したがって、民主主義を維持するために、一定程度国民の政治参加を強制する側面がこの権利にはある。

しかし、そもそも選挙権は基本的人権であり、人権というのは、行使するもしないも個人の自由である。だからこそ、本来は投票しなければ「主権者が国政の最終決定者」である原則が揺らいでしまうのだが、人権であるためその行使を強制できないゆえに、冒頭のような低投票率の問題が起こる。

 

では、なぜ投票しなければ、民主主義が維持できないのか?

 

それは権利というものの本質に由来する。

 

少し長くなるが、ここで丸山真男の言葉を引用したい。

 

学生時代に末広(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促されないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のように思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。この説明に私はなるほどと思うと同時に「権利の上にねむる者」という言葉が妙に強く印象に残りました。いま考えてみると、請求する行為によって事項を中断しない限り、たんに自分は債務者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。(丸山真男「であることとすること」『日本の思想』154頁)

 

ここでいう債権も権利である。

権利を有しているからといって、それは行使されなければ効力を発揮しない。そして、権利を持っているということ自体に安心しきって行使をしないでいると、いつの間にか権利自体が失われてしまう。

 

選挙権も同様である。

選挙には民意の集約という機能がある。自分の意見を政治過程に反映させ、理不尽なルールを代議士に変えてもらう、そういう機能がある。

しかし、権利を行使しなければ、そういう機会を自ら失っていることになる。

そして、権利の不行使が究極的にもたらすのは、民主主義自体の喪失である。

 

先ほどの引用の続きである。

日本国憲法の第十二条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定は基本的人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であるという憲法第九十七条の宣言と対応しておりまして、自由獲得の歴史的なプロセスを、いわば将来に向かって投射したものだといえるのですが、そこにさきほどの「時効」について見たものと、いちじるしく共通する精神を読み取ることは、それほど無理でも困難でもないでしょう。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです、これは大げさな威嚇でもなければ教科書ふうの空疎な説教でもありません。それこそナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、もはや最近百年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。(同155頁)

 

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選挙に行くのは権利である。

しかし、ただ持っていることに安心して行使しないでいれば、いつか失うかもしれない。

我々の先祖が血を流し、命を捧げ、苦難の末に勝ち取った権利を、である。

 

現状の制度に「民意を反映しているのか」という疑問符は確かに付きまとう。

しかし、それでも民主主義だからこそ、我々は自分たちの問題を自分たちで処理することが(建前上でも)できている。

一部の人間が理不尽な命令を国民に突きつける、そんな時代に逆行してはならない。

 

若者も高齢者も誰しも、すべからく投票に行ってほしいと思う。

それは我々が持っている大切な権利を、これからも子供たちに受け継いでいくためだから。

 

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ストレスケアには音楽を聴きながらランニングを

 

現代社会において毎日のストレスケアは非常に重要である。

 

学生・社会人を問わず、多様な人とかかわる現代人にとってストレスは避けがたいものである。

しかし、時にストレスに負けてしまいそうなときもあるだろう。

社会人なりたての頃、慣れない環境にストレスから皮膚に謎のかぶれが出てきたり、ストレスフルな生活を送っていた時があった。

 

これはやばい!

と色々探しているうちに「レジリエンス」という概念に出会った。

 

レジリエンスとは、精神的な回復力を意味する。

何か困難に直面しても、立ち直る力のこと、と置き換えてもいいだろう。

失敗を恐れず、挑戦しろということである。

 

 

この本の中で述べられていることの1つに

失敗をしてもその日のうちに息抜きをせよ、というものがある。

というのも、失敗に対する反応として生じた不安感は鬱々とした気持ちでいれば何度も反復されてしまうので、それがトラウマ等になり、挑戦をする気持ちをそぐからだ。

まずは気晴らしをして、不安感を認知するべきだという。

 

その手法として次の4つがある。

①軽い運動

②音楽

③呼吸

④気持ちを紙に書きだす

 

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私はほぼ毎日筋トレとランニングをしている。

そして、その際に音楽を聴きながら走っている。

 

この習慣を始めてから仕事への姿勢が変わった。

ストレスを感じることも減少し、楽しく仕事ができるようになった。

最初は紙に書きだしたりいろいろと試したが、ストレス解消法の中でも好きな音楽を聴き、軽く体を動かすことは私に非常に合っていることがわかった。

 

楽しく過ごせることは、教師生活を送る上で一つの重要な要素だと思っている。

レジリエンス、コツコツと鍛えていきたい。

やっぱり授業は楽しい

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夏期講習が始まった。

 

夏休みに突入し、部活動に勤しむ生徒をよそに大学受験生は机に向かう。

 

私は公民科を担当しているので、センター試験で利用する生徒を対象に教えている。

それゆえ、今の時期はガリガリと詰め込む時期ではない。

 

まずは授業の中で学んだことを復習してもらう期間である。

 

そういうことを念頭に置いているから必然的に授業ではネタを入れて笑いをとるようにしている。

 

多くの中高生にとって「勉強の内容が好きであること」と「教えている先生自体が好きであること」はほぼ同義である。

 

であるから、下記のようなことが求められる。

 

元々内向型の自分にとっては、人前で話すことは大変な労力を伴う行為である。

けれども、それが苦痛でなく、むしろ楽しく感じるのはきっと教えること、授業が心から好きだからだろう。「楽しく」を心掛けているうちに、日常生活でも自然にそれができてきた気がする。

  

楽しい授業をすると、生徒も心を開く。

ああ、頑張ろうと思う。なんとステキなサイクルだろうか。

桜丘中学校の取組みから考える、これからの学校の在り方-市民を育てる学校-

 

学校の役割は何でしょうか。

 

デレックヒーターというイギリスの政治学者がいます。

彼はこんなことを言っています。

 

自由民主主義国家における教育は、個人の発達と子どもたちを生まれた社会に適応させるという2つの目的を持つものである。

 

学校に求められる役割として、子どもの成長はもちろん、社会においてふさわしい規範を身につけ、しっかりとコミュニケーションをとれる社会性を身につけることは非常に大切です。

 

しかし、「社会への適応」を単に現状の社会を肯定するという意味でとらえてはいけません。

 

教育基本法の第一章にはこう書かれています。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法:文部科学省

 

社会を作るのは一人ひとりの国民です。そして、民主主義である以上は、その社会の方向をどうするかは国民が決めることです。だからこそ、国民には社会を変革する主体としての能力が求められます。具体的には、ルールを作り、不必要なルールは廃止するといった立法的作為に関する能力です。自分たちにどのようなルールが必要なのか、そしてそれを実現してくれるであろう人を選ぶ能力です。

 

しかし、訓練もなく、そうした高度な能力が培われるはずはありません。

とするならば、誰しもが経験する学校の中でその訓練を行うことが最も合理的なわけです。 

 

ルール(制度)には目的があります。しかし、いつしか本来の目的を離れて、ルールは人々の行動を規制するようになります。そうして、時代を経ても残ったルールは「理不尽なルール」として人々を苦しめるようになります。

それがブラック校則です。理不尽な校則に子どもたちは苦しめられ、時には人権をないがしろにされることもあります。

 

社会的に見れば、こうした理不尽なルールにメスを入れるのは司法の役割です。

尊属殺重罰規定や薬事法距離制限など、憲法に違反した法律に対して裁判所は違憲判決を下してきました。それが社会を変えてきたのです。

 

しかし、学校には司法府の役割を持つ組織がありません。ですから、ルール策定者がいなくなっても、ルール自体はいつまでも残り続け、いつの間にかルールに沿って学校が動くようになります。本来の意義はどこかへ行ってしまうのです。

ただ、大切なことはルールは人々のためにあるということです。そして、ルール作りをするのは、最終的には主権を持つ国民です。ですから、学校現場でやるべきことは、子どもたちが自分たちを律するルール作りに参加することです。きっと自分たちが合意したルールにこそ愛着がわくでしょう。法の支配を学齢期から徹底させるのです。

 

そうした取り組みの例としての西郷校長の取組みは非常に注目に値するものだと思います。

bunshun.jp

 

校則をなくしたことで、かえって生徒の動きが良くなった

 

校則が割と厳しめで育ってきたからか、正直この記事を読んでもイメージがつきません。ですが、個人的には非常にいいと思ったところは次の点です。

 

普通、生徒総会は何も面白くない。つまらないじゃないですか。そこで何を言っても、最終的に先生が決めるのなら、総会で意見が出るはずもありません。だから、「ここで決まったことは実現するよ」と言ったんです。最低でも、決まったことを先生が実現する努力を見せる。すると、どんどん意見が出て盛り上がります。僕の考えと同じことを言う生徒がいると「シメた!」と思うんですよ(笑)。

 最近実現したことは、校庭に芝生を植えたこと。ただ、野球やサッカーもしますし、植えたのは一部にしました。また、定期テストをなくしました。

 

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生徒会は、社会で言えば国会・行政に当たる組織です。

公約を掲げ選ばれた生徒会ですが、多くの学校では教員の裁量権が大きい組織なのではないかと思います。また、公約も実現することはほとんどないかと思います。

 

しかし、この学校は民主主義の原則が徹底されている。

民意を反映し、それを実際に実現する、制度的な面できちんと運用がなされている。民主的な制度がしっかりと整備されていれば、子どもたちも参加する意欲をもつ。まさに、疑似社会としての学校が、社会の形成者を育てようという試みを貫徹しようとしているのです。

 

先生方、特に西郷校長先生の支援があってこそのものでしょう。

 

こうした経験をした子どもたちが民主的なマインドを持ち、社会の理不尽なルールに立ち向かう強さを持ってほしいと思います。

ですが、他の学校でいきなりこうした取り組みを行うことは困難を伴います。また、現状の社会制度がここまで民主主義が徹底されたものではなく、卒業後に生徒たちが挫折してしまう可能性もあります。こうしたところは懸念されるべきところでしょうか。

 

 

なにはともあれ、自分自身の影響力の輪を考え、まずは教室からこうした民主的な雰囲気を醸成したいですね。

子どもたちが安心、安全に意見を言える環境の整備。そこから目指したいと思います。

 

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